10古刹に咲く花 その五 蠟梅(ろうばい)
新春になっていち早く花を咲かせる蠟梅。 爽やかな香りを放ち、淡く黄色の小花の内側はまるで蝋細工のよう。 ふっくらと丸みを帯び、ちょっと恥ずかしそうに下向き加減で咲いています。 花が散った後に卵型の実をつけるのですが、まだ見たことはありません。 蠟梅というのではじめは梅の花かな・・・と思っていたのですが、バラ科ではなくロウバイ科で、原産は中国です。 花が梅と同時期か梅より早く咲いて、香りがよいので、梅になぞらえたと言われています。 江戸時代初期、後水尾天皇の時に「唐梅」として朝鮮から献上されました。 庭木としても良し、また、茶花や生け花として活用されています。 道明寺天満宮拝殿横、赤い鳥居の前に咲いています。 (2020/1 芳尾) 9古刹に咲く花 その四 木げん樹 6月中旬から7月にかけて西宮神社や道明寺では、枝先に穂状の茎をつけた小さなかわいい黄色の花が咲きます。木槵樹の花です。 満開の時は全体が黄色ですが、中央部のふくらみが赤く色づくと、まるで金色の雨がはらはらと舞い落ちるかのように散りはじめます。まさに「Golden Raintree」。そして、秋、10月頃になると実は硬い黒色の種子になります。 この実を108個拾って数珠をつくり、100万回念仏を唱えると、極楽往生ができるという伝説があり、謡曲 「道明寺」で謡われております。木の実を半分に割ると、なんとお経の巻物のような形になっていて、なんだか有り難い気がします。 数個拾ったことがあるのですが、直径が5ミリの小さい実なので穴をあけるのもたいへんです。 ある日、ふと見かけた女性の胸元には木槵樹の長いネックレスが・・・・・・・ きっと根気よくつくられたのでしょうね。素敵でした。 *西宮神社の木槵樹は、菅原道真公の経塚から生えて育ってきたと伝わっています。今は数代目になるのですが、大阪府の指定天然記念物になっています。 (2019/6 芳尾) 西宮神社の木げん樹 木げん樹の花 木げん樹の実(つぶれないように樹脂加工しています) 7古刹に咲く花 その三 山茱萸(さんしゅゆ) 新春から初夏にかけて藤井寺の寺社の境内には、いろいろな色の花が次々と咲き始めます。春のはじめごろ、葉より先に黄色の小花をたくさんつける山茱萸。古刹にも春が訪れます。 菅原道真公ゆかりの道明寺 境内はいつも砂が掃き清められ、静寂な雰囲気がただよっています。新春から初夏にかけて、梅・桜・椿などの花や菩提樹、木槵樹の木々が心を和ませてくれます。 山茱萸は3月の初めから4月ごろまで黄色の花を咲かせます。境内にある「道明寺 十一面観音像」の石標(富岡鉄斎の揮毫)の横に1本の山茱萸の木。 満開の黄色の花は、訪れる参拝者やウォーカーの目をおもわず引き付けます。そんなに大きな木ではないのですが、小さな小花が集まり小さな花房を作って開花します。青空に黄色の花が一面に咲き誇る様子はまさに主役級です。黄色の花を見ると気分もパッと明るく、元気が出るような気がしますね。また咲き始めの桜のピンクとのコラボも見逃せません。 潮音寺 東高野街道沿いにひっそりと佇む潮音寺。平安時代の「衣縫孝女」という孝行娘の碑があり、その伝説にぴったりの花の寺。新春から初夏にかけて梅・椿・桜・山茱萸・・・と花々が次々と咲き始めます。手入れが行き届いた境内はどの花も見劣りすることはありません。緑の境内に山茱萸の黄色の花がやさしく、温かくむかえてくれることでしょう。 6古刹に咲く花 その二 椿 (1)尼寺の椿 道明寺 菅原道真公ゆかりの道明寺。ちりひとつなく掃き清められた箒目の境内が美しい。 山門の左手奥の本堂裏庭に毎年12月から4月初旬にかけて種々さまざまな椿の花が咲く。 最初に出会うのは金魚葉椿。葉の先が3つに分れ、まるで金魚の尾びれのようである。 子ども達は「わあ~きんぎょや~ きんぎょつばきや~」と呼んでいる。花はごく普通の見慣れたのピンク系の椿である。 林のような椿の木の間をくぐっていくと 「ここ ここよ 見つけて~」足元からなんだか声が聞こえてくるみたい。下向き加減の小さな可愛いピンクの椿。侘助だ。一重で半開状に咲く様子はまるでおちょぼ口みたい。茶会でよく好まれ、茶花として愛好されている椿。 上を見上げると大輪の赤い椿が風にゆれている。何て名前だろう?天高く青空にす―と伸びた白い椿。こんな高い木の椿もあったのだ。日本画によく描かれている純白の角倉椿(すみのくらつばき)は優しく清楚な雰囲気が漂う。江戸初期の京都の豪商で能書家の角倉素案が発見者と言われている。 代々公家出身の女性が住持されている格式高い尼寺の道明寺。綴錦は濃紅地に雲状の白斑の大倫の椿で華やかで気品に満ちている。 以前からなかなかお目にかかれなかった黒椿。なんと今年はいっぱい花をつけているではないか?思わず目を疑いたくなるほど感激もひとしお。ちょっぴり小粒で濃い臙脂(えんじ)色。つぼみも多くまだまだ楽しめそうだ。 3月になれば遅咲きの椿が次々と咲き始める。風情ある散り椿は春の訪れを知らせてくれる。 長年茶道と華道に嗜み精進されているご住職さま(御前さま)がお茶やお花のお稽古をされるお寺としても知られ、裏庭の椿も茶花として尼僧さんたちが植えられるようになったのだろう。 道明寺の椿は知る人ぞ知る隠れた椿の名所である。これからもそうであってほしい。 角倉椿(すみのくらつばき) 黒椿 綴錦 金魚葉椿 (2)椿の参道 辛國神社 深い緑に囲まれた長い参道を歩くと心が癒されます。 境内は「大坂緑の百選」にも選ばれ、記念樹として数十種類の「椿」100本が植樹されました。 1月から3月にかけて緑の木々の間に色とりどりの花を咲かせます。 ピンクの可愛い「港の曙」。ほんのりと甘い香りが漂い、濃いピンクのぼかし加減がほのぼのとした春の曙を思わせます。弁が重なり合った「乙女椿」はその名の通り恥じらいの女学生。白色の清楚で上品な「角倉椿」。そしてなんといっても緑の杜に映えるのが赤い「侘び助」です。侘び助はヤブツバキ系の椿で古くは万葉時代から和歌に詠まれ、日本のどこにでも見られる親しみのある椿。小さな赤侘び助はまさに緑の古社にぴったり。侘び助に出会うとほっとした気分になります。 2度目に訪れた時は、何となく懐かしく、咲き誇った椿の花たちがさわさわと・・・「待っていたよ。満開だよ」って迎えてくれたような気がしました。 社殿北側の裏参道は高い椿の木も多く、まるで椿林のようです。名前はわかりませんが赤や白が混ざった絞り染めのような椿。花びらが八重でフリル状の洋種の椿は胸もとのコサージュに合いそうな感じです。中でも「白唐子」「京唐子」など華やかな大輪の唐子が見事でした。 港の曙 侘助 乙女椿 (3)五色椿 潮音寺 潮の音が聞こえるお寺。何という美しい名前でしょう。 平安時代「衣縫孝女(いぬいこうじょ)」という孝行むすめの伝説もぴったりの花の寺。 1月から3月にかけては山茱萸をはじめ、椿が狭い境内を華やかに彩ります。 白椿、金魚葉椿、そしてなんといっても1本の木から紅や白、そして紅白絞り縞模様の 花が咲く五色椿は出会いの感動すら覚えます。まるで双子のように前後にひっついて咲く 不思議な椿も同じ五色椿なのです。白地に淡紅の縦絞りが五色椿の本来の色だそうです。 椿の花は一般的に花ごと落ちますが、五色椿は花びらが一枚ずつはらはらと散るように 落ち、別名「散り椿」とも呼ばれています。樹下に花びらがグラデーションのごとく敷き 詰められた様も美しいですね。 月光(赤)、日光(しろ)という菩薩さまみたいな名前の椿もあるとのことでした。 (高貴寺から苗をいただいたそうです)来年はぜひ見たいです。 (2016年11月 芳尾) 潮音寺の五色椿 参考資料 (1) 横山三郎・桐野秋豊著「日本の椿花」、1989年1月、淡交社 (2) 桐野秋豊著「色分け花図鑑 椿」、2005年1月、学習研究社 (写真は筆者による撮影) 5古刹に咲く花 その一 春を告げる梅 (1)道明寺天満宮 ○梅園 立春を過ぎてもまだまだ寒い2月。天満宮の境内はほのかな梅の香につつまれます。 天満宮の約1万坪の境内に菅原道真公の御神霊をお慰めするために紅白80種800本の梅の木が植樹されています。 紅梅、白梅、ピンクの梅が重なり合って 観梅橋から 見事なグラデーションを成す 毎年2月半ばから3月上旬まで恒例の「梅まつり」が開催され、市内、市外から大勢の方が観梅に訪れ楽しまれています。 梅園の梅は綺麗に剪定され、石の観梅橋から四方にながめられ、紅白やピンクの梅の花がまるで雲海(梅海?)のようです。時には本殿や鳥居がまるで浮かび上がったように見えます。 なんと美しく、不思議な梅園でしょうか? 寒さの中、凛として咲く梅の花。豊かな香りと共に、まさに豪華絢爛の梅の花は百花に先だって春の訪れを感じさせてくれます ○句碑 境内には梅にちなんだ句碑があります。 早梅の片はなびらの立つるあり 泗水 青梅や餓鬼大将が肌ぬいで 一茶 (榊獏山書) 一茶が33歳の時 寛政7年(1795年)西国行脚中に当宮に立ち寄られた時句碑のある場所で詠んだ句だそうです。 なんと300年前から梅林の里だったのですね。 ○「常成の梅」の木 1年中実をつけていると言われる梅の木。 菅原道真公が大宰府に下向される時、花の盛りを 見て梅の実が落ちないように祈ったと言われてい ます。 今年も探して探してやっと一つ見つけました。 常成の梅の周りに結ばれたおみくじは真っ白い垣根 みたいですね。 (2)道明寺の枝垂れ梅 境内の奥の庫裏の中庭に2本の枝垂れ梅。 ちょっと近寄りにくいかな・・・・ でもちょっと覗いて見たいな・・・ 手前が紅梅、奥が白梅の枝垂れ梅。 白梅はまるででっかいアンブレラ。 紅梅は枝の枝垂れ具合がなんとしなやか。 雰囲気は異なりますが気品よく咲き誇っています。 (3)その昔は・・梅の名所 黒田神社 北条にある藤井寺の古社。知る人ぞ知る。 ひっそりとした雰囲気が漂う神社である。その昔、梅の名所であったという。 広い境内にはたくさんの梅の木があったそうな。 文人である三田承久の「河内鑑名所記」(1679)に記載されている。 ・神の梅北条九代のつき木哉 西鶴 ・梅の絵は四季天神の詠かな 承久 ・北条の時正しきや梅の花 重良 本殿の千木を背景に名残の梅の花がさいていた。 河内鑑名所記(注) (注)出典:三田章編「上方藝文叢刊3 河内鑑名所記」昭和55年、上方藝文刊刊行会 (2016年6月 芳尾) 4舟橋村の早咲き水仙をたずねて そのニ 江戸時代の舟橋村の庄屋松永家に水仙花に係る古文書があると聞き早速お訪ねしました。文書は欠年ですが十一月六日付の公卿持明院家より松永織部宛ての御礼状です。(持明院家は藤原氏北家中御門家の庶流) (井元良洋編、「松永家文書 松永織部の子孫 店・松永家」、平成22年5月、 松永白洲記念館松永明発行) 松永織部は天保年間に持明院家の家来として仕え、旅宿中(殿様の御用の無い時)は医業を究めるとともに剣術士として多くの門弟に囲まれていました。織部以後、娘・孫・曾孫と四代が医業として持明院家に仕えていて、伺候時に使用された家紋入漆仕立ての駕籠が保管されています。 水仙花を届けたのは御礼状から推し量ると今の十二月初め頃、花の少ない時季の邸に芳香が漂ったことでしょう。 織部はどのようにして運んだのかな、駕籠の後ろにお供が花を詰めた桶か、薦巻きにした束を担いでいく姿を想像しました。 船橋地区の墓地に織部の墓があると聞きお参りさせていただきました。高い墓石に「松永先生の墓」と太く深く刻まれた字に織部の人と形を浮べています。ふと後の空き地を見ると一かたまりの水仙が咲いていました。 現在、船橋地区の方達が公園や空地に球根を植えてかつての水仙郷を復活させようと尽力されています。 私がお訪ねした松永家は11年前から松永白洲記念館として、書道家白洲(織部の裔の薫氏、日展作家)の遺品の書や道具が展示されています。水仙を描いた書画、文中の駕籠も拝見できます。開館日は土・日・月曜日の10時~16時、無料です。連絡先 090-4306-6109館主松永明。 古野英子画(松永白洲記念館) (あとがき) ここ数年、秋にはいると船橋地区を訪ねて早咲き水仙を探し歩くのですが、会えないままです。水仙の群生地として越前海岸(福井県)、淡路島の黒岩、伊豆爪木崎などが知られていますが、咲き始めるのが11月中旬くらいだそうです。植物学の先生に早咲き水仙のことをお訊ねしますと、江戸時代に正月用の花材として清楚で香り高い水仙が好まれ、その時期に合わせる栽培方法がなされたと思われるが、図会記載のように八・九月にしかも野辺に咲くとは考えられないとのお返事でした。 (2015年2月 近藤) 3舟橋村の早咲き水仙をたずねて その一 かつて、藤井寺市に水仙郷がありました。場所は江戸時代の舟橋村で『水仙屋』という旅籠屋もありました。 延宝7年(1679)刊行の「河内鑑名所記」(三田浄久著)の巻四に 舟橋村 水仙花の早咲の名所 舟橋や世に云ひわたる水仙花 保友 舟橋や一かゝりあるすいせん花 正元 と詠まれています。 また、享和元年(1801)刊行の「河内名所図会」(秋里籬島著)巻之四に 「名産水仙花 舟橋村に多し 玉玲壠 金盞 銀䑓 等の名あり 水仙花は霜雪をうけて開く 此地は他境にすぐれて早し 八・九月の頃開花はじむる色麗しく高貴へ献る 中華(もろこし)には名花多くありて花形大なり 金盞のごとしと山谷(中国の詩人)が詩にも見えたり」 と記述され、見開きに大和川 築留の絵が載せられています。 中央の大和川は奈良県北部の諸河川と合流し大阪府柏原市に流れ、そこで葛城山系源流の石川と合流し大河となって大阪府の堺市を経て大阪湾に注いでいます。元禄年間以前は柏原市より北上し淀川に合流していました。しかし、天井川であったため氾濫が多発。 宝永元年(1704)幕府によって川筋が変えられ、その付け替え付近が築留です。 滔滔と流れる大和川には剣先船(貨物運送舟)や渡し舟が航行し、手前の陸に菅原道真公ゆかりの道明寺、そして舟橋村の水仙名所の名が囲み文字で表されています。 河内名所図会は江戸時代の旅の手引書、興味深く読むなかで気になる箇所が二つありました。一つ目は「八・九月の頃に開花・・」は今の九・十月、早咲きの水仙といってもそんな早くに? と、「色麗しく高貴へ献る」の高貴なお方とは何方なの? です。 舟橋村はいま、藤井寺市船橋町です。大和川には橋、鉄橋が架かり川沿いにバイパスが通り往時とは様変わりしています。でも、水仙は球根花なので名残があるかと九月に入って船橋地区周辺を歩きましたが葉の芽も見つかりません。十月過ぎにやっと葉が伸び始めていました。この分だと開花は十二月過ぎと思い、出かけるとぼつぼつと咲いていました。思わず近寄り花を見つめました。香は高いのですが普通に見かける房咲き水仙の様で辺りの花も同じです。 年を変えて歩きましたが図会に記された早咲き水仙には会えないままです。当時と温暖化の現代との変化なのでしょうか。私にとって船橋の早咲き水仙は幻の花になりつつあります。 引用文献 ・堀口泰生編「河内名所図会」(1975) (2014年12月 近藤) 2 沢田ぶどう 中・南河内の山ろくはぶどうの栽培が盛んで、大阪府の大半を出荷しています。平成21年のデータでは全国7位の5,930トンの出荷量ですが、昭和50年代は全国有数の出荷を誇っていたそうです。 江戸時代後期、南河内一帯の民家では日除け用のぶどうが植えられていたようで、「紫ぶどう」と呼ばれ地域の産物として出回ったそうです。 古くは秀吉の朝鮮出兵の時に持ちこまれたとする説もあるが品種は確認できていないようです。「紫ぶどう」は甘みがあり、江戸時代は大坂に運ばれ重用されたそうで、天保の記録では幕府に献上されたことが残されています。明治初年には料亭や旅館で「沢田ぶとう」として高級果物の扱いとなり、山梨についで、わが国第二のぶどう産地だったそうです。 そんな紫ぶどうの中心である沢田に、明治9年(1876)に果樹栽培を振興するために、大阪府によってぶどう試験園が設けられ、ぶどう苗の配布が始まりました。これが沢田一帯で栽培が盛んになるとともに、現在の柏原市などのぶどう栽培の始まりともなったということです。この品種は「甲州ぶどう」で、柏原では「本ぶどう」と呼ばれ、完熟果は高級和菓子に勝る上品な味だそうです。 明治20年代、藤井寺市域は、府下第一の生産地になり、その後のデラウエア種なども加わり第二次大戦後しばらくまで有数の出荷がありましたが、今はほとんど栽培されていません。 柏原市の「本ぶどう」は昭和10年代、府下最大の出荷がありましたが、新種のぶどうに転換し、「本ぶどう」を作る農家が少なくなっています。しかし、希少な種類の甲州ブドウを好むひともあって、若干の出荷があるようです。 柏原市堅下のぶどう園の間に、散策道が整備され、その上にぶどう棚が張り出し、季節になると甲州ぶどうのたわわに実る風景を楽しむことができます。 (このレポートは、2010年に当ホームページに掲載されたものを再編集したものです 鈴木) 参考資料 l 「藤井寺市史 通史編三(近現代)」1988年 l 「道明寺町史」昭和26年 l 小寺正史「大阪府におけるブドウ栽培の歴史的変遷に関する研究」1986年 l 小寺正史「柏原ぶどうの歴史」1982年 l 柏原市立歴史資料館「柏原ぶどう物語」2011年 1 はだかの古墳 冬は、陵墓になれなかった古墳たちの出番である。津堂城山古墳(一部陵墓参考地)、古室山古墳、大鳥塚古墳などがそれである。 墳丘を冷たい風が吹き抜け、わずかに残っていた立木の葉も残らず飛び散る。いろどりも少ない。骨格だけになった枝が空に突き出て、その隙間からくっきりと古墳の全景が現われる。 丸い墳頂は、前方の方形よりもはるかに高いのがよく分かる。4世紀末から5世紀初め頃に造られた特徴的な姿だそうだ。1600年も昔の凛とした威容を感じる。ヴィオラの胴に似た墳丘のスロープは、妖艶な感じさえして、そのアンバランスが可笑しい。 冬のさなかにしか目にすることのできない、はだかの古墳である。(勝部) 古室山古墳 大鳥塚古墳 |
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