古墳のある風景 17 川上 恵
祝 世界遺産!
「傑出した歴史的価値」との高い評価を受け、百舌鳥・古市古墳群49基が世界文化遺産に登録された。
古市古墳群に限って言えば、4世紀後半から6世紀中頃にかけて、前方後円墳・円墳・方墳・帆立貝形の130基が築造された。
だが、今や現存するのはたった45基である。そのうち26基が世界遺産に登録された。
なんと85基が災害で壊れたり、開発で壊されてしまったのだ。
藤井寺市と羽曳野市の境に、青山古墳という62mの円墳がある。
かつては一帯に11基の小さな古墳が点在し、古墳群を形成していた。集団の長が三世代をかけて営々と築いたものだ。だが現在は青山古墳1基を残すのみである。道路わきの説明板が、うら寂しい。
130もの緑の小山や森が、そこここに点在していた光景を想像してほしい。
どんなに壮大で清々しく美しかったろう。そして神秘的だったことか。
地下に眠る、今は消滅古墳と名を変えた哀しい古墳たち。
それらの古墳もかつては青々と樹々を茂らせて輝いていた。人々から崇められ親しまれてもいたはずだ。そこには、どれほど多くのドラマがあったことか。
だが形と一緒に、精神性や温もり親しみも消えてしまった。
人はなくして初めてその大切さを知るのである。これ以上哀しい古墳を増やしてはならない。だからこその世界遺産である。
これを機に、消えてしまった古墳にも思いを馳せ、現存する古墳の保全に一層の努力をしなければならない。
雄大だったり、可憐だったり、住宅地の中にうずくまっていたり、見過ごしてしまいそうだったりと、様々な表情を持つ、百舌鳥・古市古墳群は、これからも1500年以上も昔の姿を、長く後世に伝えるのである。
まことに喜ばしいことである。
古墳群のあった市街地を望む 古墳群跡説明
古墳のある風景 16 川上 恵
流浪の王子
王権を手中にするためには、身内で殺し合うことも稀ではなかった古代にあって、天皇の座を譲り合う麗しい兄と弟がいた。
父を雄略天皇に殺された幼い兄弟は、身分を隠し播磨の国に隠れ住んでいたが、世継ぎをするものが無く、どちらかが即位することになった。
辛苦を共にし、助け合って生きてきた兄弟は、互いに譲り合った末、まずは弟が、そして弟亡き後は兄が天皇となった。顕宗天皇と仁賢天皇である。
「兄上、雄略の陵を暴いて父の仇を討とうではありませんか。辱めを与えるのです」
弟・顕宗の言葉に、「その役目は我が」と、深夜兄はたった一人で陵に向かった。
そして、手の平に乗るだけの土を持ち帰った。いぶかる弟に、
「かりそめにも、そなたを天皇にして下さった方の父君ではないか。辱めてはならぬ」
仁賢天皇陵は、そんな美しい物語を持つ古墳である。
前方部の側には、古市大溝と呼ばれる運河の名残と下田池が広がっている。
池越しに見る古墳は、お椀を伏せたように愛らしい。
真正面には二上山。なんとも長閑で、心安らぐ水辺の光景だ。
ぽちゃんぽちゃんと、細波の打ち寄せる音が聞こえる。
黒い水鳥が漂っている。なぜか私の後をついてくる。
ごめんね、餌はないんだよ。
仁賢天皇が眠る墓所から雄略天皇の陵は、ごく近い。
その濠は豊かな水をたたえ、小高い墳墓は緑深い樹々に覆われ、風格ある佇まいだ。若き日の兄の英断の賜物である。
そして、兄を慕ったあの懐かしい弟は、二上山の東方に眠っている。
仁賢天皇陵古墳
古墳のある風景 15 川上 恵
ミステリアスな古墳
墓山古墳はミステリアスな古墳である。
全長225mの前方後円墳は、古市古墳群では5番目の大きさである。ちなみに全国では22番目だ。それにしてはこの名称の素っ気なさ、芸のなさは寂しいなと思っていたら、昔から堤や壕の一部が墓地に利用されていたのが由来だと知り納得をした。
人々の生活と古墳が密着し共存していたのだ。その大らかさ懐の深さを、人々は享受してきたのだ。古代の墓の上に、周辺住民の代々の墓が造られ、現在も守り継がれているのはなんとも興味深い。親亀の背中に子亀が乗って、甲羅干しをしているような長閑な光景が広がっている。
墓山古墳は4基の陪冢を持っている。なかでも野中古墳はよく知られている。
「うらやぶ」と呼ばれていた小さな古墳が、圧倒的な量の鉄製の武器や武具類を有していたのだ。当時、鉄製品は貴重品である。とびっきり豪勢な古墳が陪塚なのだ。
一挙に墓山古墳の存在が光り輝く。絶大な力を持つ配下を従えた首長は、一体何者なのかと、謎が謎を呼ぶ。今も昔も持つべきは力のある配下だ。
そんな数々のエピソードを持つ墓山古墳は、実は「応神天皇陵ほ号陪冢」に治定されている。陪冢を持つ陪冢。これがミステリアスな古墳と言わずしてなんと言おうか。
「まだ私にたどり着けないのか、1500年以上も経つというのに。いつになったら私を見つけるのだ。早く私を陽の下に出してくれ、名無しの権力者にはもう飽きた」
被葬者は闇の奥深くでやきもきしていることだろう。
墓山古墳
野中古墳
古墳のある風景 14 川上 恵
濠の中の巡礼道
街道が好きだ。
気の遠くなるほどの年月をかけ、男や女、老人や子供が歩き踏みしめ造られててきた確かな道。素朴な温もりを足裏が感じる道。
街道を歩くとき、そして古人が眺めただろう景色を、私もまた眺めるとき、その長大な時間の流れに畏怖を覚え、一方では、同じ空間を共有している不思議さに、懐かしいような切ないような感傷にとらわれる。
なかでもひたむきな巡礼街道に心惹かれる。
スペインのサンティアゴ巡礼路、高野・熊野詣に伊勢詣、そして西国巡礼……。 洋の東西を問わず巡礼街道は存在するが、古墳を横切る祈りの道は、そうざらにはないだろう。
清寧天皇陵の濠の中を、西国33ヵ所参りの巡礼街道が横切っている。
巡礼道は4番札所の槇尾寺から五番の葛井寺へと向かい、濠に囲まれた古墳の裾を南北につつましく伸びている。なんとも勿体なくも有難い道である。
目をとじれば、白い衣の巡礼者が一列になって、天皇の御霊に頭を垂れつつ、緑の古墳の中を観音様を念じながら歩くさまが見えるようだ。
葛井寺で出会う千手観音はどんなお姿だろかと心弾ませ、祈り、ただひたすらに歩く、崇高でひたむきな街道である。
昔もいまも巡礼者の姿は清らかで美しい。
清寧天皇は民を愛する心優しい天皇だったそうだ。
そんな天皇の陵を巡礼道が渡っているのはなんとも興味深いことである。
現在も巡礼街道は健在だが、残念ながら古墳の中には入れない。 清寧天皇陵古墳
古墳のある風景 13 川上 恵
改札口の向こう
藤井寺市民は古市古墳群の中に住んでいる。
周囲に古墳群があるのではなく、古墳群の中で私達が生活を営んでいるのだ。点在する小山のような、あるいは丘のような深い緑色は、ほぼ古墳だと思って間違いない。大小の古墳の杜の間を川や水路が白く光り、寺院の甍がそびえる。大空から眺めたら、きっと、おとぎの国のような眺めではあるまいか。
近鉄土師ノ里駅の改札口の真正面に、小さな古墳がうずくまっている。
鍋塚古墳である。古墳の下方を小豆色や朱色の電車が走っている。
「行っていらっしゃい!」
「お帰りなさい、お疲れさま」
学生や通勤者、買い物への主婦たちを、駅前の古墳は見送り出迎え続ける。
墳丘を被う芝生の清らかな早緑、古墳を包む燃えるような夕焼け、7メートルばかりの墳頂に登れば、遥か彼方にあべのハルカス……。
だがその佇まいは、押しつけがましくなく、さりげに美しい。
それらを当たり前の光景として、私達は享受する。癒されている事にも気づかずに……。
この度「百舌鳥・古市古墳群」は、世界文化遺産登録の国内推薦を受けました。
大型の古墳が多い古市古墳群には、このように小振りで可憐な古墳も多くあります。
どうぞ古市古墳群へお越しください。改札口の向うで、鍋塚古墳は皆さまをお待ちいたしております。
鍋塚古墳
古墳のある風景 12 川上 恵
仁徳の母
眠りについてからのわたくしは、とても平安でした。
幸せに浸っている日々でございました。
夫の応神天皇陵とわたくしの陵は、手を伸ばせばとどく近さ。
夫の息遣いを自分だけが感じられる喜び。
わたくしは仲姫命。仁徳天皇の母です。
羨ましいような境遇ですって? そうでしょうか。本当にそう思われますか。
わたくしの姉は隴たけた美しい人でした。
妹は若さで眩しいほどでした。
そんな姉と妹も天皇にお仕えしたのです。
皇后とはいえ、わたくしとて石ではございません。
心にさざ波がたたなかったと言えば嘘になります。
けれど、
わたくしたち姉妹は、天皇家の血をひく気高き血筋。
女の仕事は血筋を絶やさないことなのです。それが務め。
わたくしが逝き夫が逝き、
数えきれない年月を、春の陽ざしのように穏やかに過ごしておりましたものを、
世の中にはお節介で無粋な方がいらっしゃるものですね。
夫の傍にわたくしは眠っていないとおっしゃるのです。
じゃあ、夫の傍に眠っているのは誰なのでしょう。
わたくしは一体どこにいるのでしょう、
わたくしはまた苦悩を生きるのでしょうか。
仲姫命陵古墳
古墳のある風景 11 川上 恵
父親の匂いがする
津堂城山古墳は老いた父親の匂いがする。
春や秋の柔らかな陽射し、夏の木陰、冬の日溜り……、ベンチに腰かけると、大らかで武骨な父親に抱かれている気がする。節くれだった手が優しい。濠には菜の花、雪柳、桜、菖蒲、睡蓮、コスモス、そして梅と、四季の花々が古老の古墳を称え咲き競う。
だが父は傷ついてもいる。散策する人を拒まない墳丘の斜面は削れ、往時の地表が露出し、木の根が太い血管のようにくねくねと地面を這っている。それを眺めるたび、私は皮を剥がれた因幡の白兎を連想して辛くなる。
だが古墳はそんなことは意にかいさず、堂々と疵をさらけ出し、堂々と花を咲かせる。 これが家長の姿だとでもいうかのように。 被葬者はだれか等、そんなことは些細なことだと、辺りの風景と同化している。
津堂城山古墳は古市古墳群で一番古い4世紀後半の築造だ。だが、その風格は古さだけからくるものではなく、この古墳本来が持つ品性や遭遇した悲喜こもごもが醸し出している気がする。人に人品があるように、古墳にも品格があると思うのは私だけだろうか。
叢から秋の虫の音が聞こえる。
津堂城山古墳
古墳のある風景 10 川上 恵
雨の似合う古墳
小雨に煙っている応神天皇陵の風情と言ったら……。
緑濃い古墳の杜は、霧雨の向うにぼんやりとその姿を滲ませ、拝所の玉垣も白い玉砂利も清らかなことこの上ない。清浄で端正で雄大、「聖域」という言葉が頭をよぎる。
雨宿りをしているのだろうか、どこからか小鳥の鳴き声が聞こえる。
「雨の似合う古墳ですね」
雨の向うを凝視しながら友人が、ぽつりと言った。
「古市古墳群で一番大きな古墳なの。幽玄で、なんだか異空間にいるみたいね」
辺り一面に乳白色の紗がかかっている。
そう、ここは異空間。八幡神がおわす場所。
応神天皇陵古墳
古墳のある風景 9 川上 恵
想像をかきたてる古墳
面白い本に出合った。
「源氏物語が語る古代史」。副題として、交差する日本書紀と源氏物語、とある。 「う~ん」とうなってしまった。
作者は倉西裕子さん。紫式部は日本書紀を原資料として源氏物語を書いたのではないかと仮説を立てている。女性ならではの柔らかでロマンティックな発想だ。允恭天皇の第一皇子、木梨軽皇子は絶世の美男子だったそうだ。その皇子が光源氏のモデルだというのだ。
光源氏がそうであるように、木梨軽皇子が立太子のとき、その容姿のあまりの美しさに、拝謁した者はみな感動せずにはいられなかったと、日本書紀には記されている。そして道ならぬ恋で都から追いやられることも同じだ。これも美男の允恭帝は、源氏の父、桐壺帝に当てられている。美男子の血筋なのだ。 紫式部は「日本書紀」に明るく、女官たちの間で、「日本紀の御つぼね」と渾名されていた。読み進めていくうちに納得している私がいる。
そんな允恭天皇陵には十基もの陪冢があった。その一つ、陵の東側に位置する宮の南塚古墳は小高い円墳だ。被葬者は分からない。
二十年ほど前までは古墳への細道は桜のトンネルで、散り敷いた花弁はさながらピンクの絨毯だった。倉西さんならこの古墳に誰を眠らせるだろう。想像をかきたてる古墳である。
宮の南塚古墳
古墳のある風景 8 川上 恵
桜をめでた天皇
允恭の陵は家から歩いて数分の所にある。前方部を北に向けた悠然とした古墳は、馴染んでいるせいか、愛着はひとしおである。
江戸時代、墳頂部は綿畑だったらしい。河内地方は河内木綿の産地であった。綿の花は可憐だ。中心部が臙脂色(えんじいろ)の薄黄色の花弁は、嫋々とした風情で、掌に包み込みたくなる愛らしさだ。
花の命は短い。夕方には桃色に染まり恥じらうように花弁は萎む。そして秋には雪のような純白の綿を吹く。さぞ美しかったろう。
允恭天皇の名を知る人は少ない。ものの本によると、病弱だが慈悲深い天皇だったようだ。病気を理由に天皇の座を再三辞退したが、皇后の勧めを受け入れ即位を決める。だがそんな天皇も皇后を深く悩ます恋をする。皇后の妹・衣通姫(そとおりひめ)との恋愛は一途で、美しくも哀しい。こんな歌が残っている。
花細(ぐわ)し桜の愛(め)でこと愛では早くは愛でず我が愛づる子ら
(なんと繊細な桜の美しさ美事さよ。どうせ愛するのなら、もっと早く愛していたかっ た。そうしなかったのが悔しいよ、愛しい姫よ)
夕暮れの允恭陵はことに美しい。何羽もの白鷺が、朱く染まった陵のねぐらに帰って行く。そして春には山桜が一本だけ、哀しい恋を知ってか墳丘の中ほどに咲く。
允恭天皇陵古墳
古墳のある風景 7 川上 恵
空玉
空玉(うつろだま)、なんと美しい響きだろう。
ある博物館で初めてこれを見た時、そのあまりの儚さに、言葉の響きに、ひと目で魅せられてしまった。私は言葉にさえ一目ぼれをする。
古墳に眠る王や媛たちの耳を飾った、精緻な作りの耳飾り。空玉とは細い鎖と鎖を繋ぐ小豆くらいの空洞の玉である。多くは金や銀で出来ている。銀製のはくすみ、もはや灰色になっているのが、いかにも哀れでうつろだ。
シャラシャラと微かな音を立てる繊細にして雅な副葬品を、千四、五百年も懐に抱いていたのが小白髪山(こしらがやま)古墳である。尤も出土したのは耳環と空玉だけだが。
清寧天皇は生まれた時から白髪だったそうだ。少年時、天皇は我が容姿にどんなに心を痛め、傷ついていた事だろう。陵の名は残酷にも白髪山古墳。小白髪山古墳はその陪冢である。主に従うように中心軸を同じくして、前方部を西に向けている。名称といい、その位置や大ささといい、忠誠心のようなものが感じられ私は好ましく思う。空玉のついた耳飾りを揺らせていたのは、天皇の白髪を哀しく愛しく思っていた人だろうか……。
清寧天皇陵古墳
古墳のある風景 6 川上 恵
冷淡さと優しさと
濠を風が渡った。さざ波が水面に広がった。
金砂銀砂をばらまいたような波頭が美しい。
背中の赤い大きな亀が、水の中から顔を出した。古代なら間違いなく吉祥である。
だが私には、目の前の陵と雄略帝が結びつかない。その名に比して墳墓が小さく、雄々しさが感じられない。
「こもよみこもちふくしもよ……」
万葉集の第一首はこの歌から始まる。
そこの若菜を摘んでいる君、僕も名乗るからさあ、君も名前を教えてよ。今風に言えばナンパの歌である。またある女性には、僕が必ず迎えに行くから誰とも結婚しないでよ。と熱く囁いたかと思うと、そんなことはすっかり忘れてしまうという薄情さ。そのうえ自分が王権を得るためには、身内をも殺してしまう残忍、非道ぶり。
だが、ふと何かの拍子に先の女性との約束を想い出し、いまや面影も残っていない老女に温情を示す。
残忍はもっての他だが、冷淡さと優しさの二面性を持った男性にも、女性は魅かれるものだ。多分。
雄略帝に思いを馳せている内に、水面は金砂ばかりになった。夕焼けが美しい。
雄略天皇陵
古墳のある風景 5 川上 恵
シルクロードの香り
安閑天皇陵にはシルクロードの香りが漂う。正倉院御物に納められているガラス碗と瓜二つものが、この古墳から出土したのだ。
ササン朝ペルシャ製の厚手の円形切子碗は、天山山脈・敦煌・長安、そして東シナ海と、絹の道を通って奈良へ。そして、そこからまた少しだけ旅をして、河内の地に落ち着いた。ガラス碗はなんと過酷な長い旅を続けてきたのだろう。距離的にも時間的にも。
「はるばる遠いとこまで、よう割れんと来たね。河内までよう来てくれたね」
見たこともないのに、撫でたいほどの愛しい気持ちが沸きあがる。西域の匂いを纏ったガラス碗が出土したというだけで、なんだか安閑天皇がエキゾチックな人物に思えてくる。
戦国時代には畠山氏らの本丸ともなった古墳だが、そんなことは知った事じゃないとばかりに、後方にある后の春日陵と仲良く寄り添い、在りし日を語らっている。
東京国立博物館に収められているという実物に、一度お目にかかりたいものだ。
安閑天皇陵古墳
古墳のある風景 4 川上 恵
ヒーロー
神話でのヒーローと言えば、まずこの人。
古事記では倭建命、日本書紀では日本武尊と記されるヤマトタケルである。乱暴者ということで父親に疎まれ、熊襲や蝦夷征伐に東奔西走させられるが、伊吹山で病を得、能褒野で亡くなってしまう。白鳥陵と称されるものが三基ある。白鳥と化したタケルが飛び立ち、そして舞い降りた場所である。
私は俄考古学ファンとなって、三重県の能褒野と奈良県の琴弾原を訪ねた。どちらの陵も、鬱蒼とした、やぶ蚊の多い雑木林のようだった。陪冢に名前はなく「は号」「へ号」などと、小さな標識が立っている。埋葬されている人はさぞや肩身が狭いだろうと、私はいらぬ心配をする。河内生まれ河内育ちの私は思うのだ。タケルの陵墓は古市古墳群で七番目に大きい、日本武尊白鳥陵こそが相応しいと。
満々と水をたたえた濠には水鳥が揺蕩う。父タケルに憧れた仲哀天皇が、 父の魂は白鳥になって天に昇ったと信じ、全国から白鳥を集め陵に放ったと言う美しい話に胸を打たれる。
悠然とした墳墓は、悲劇を生きたタケルを慰める安らかさ清々しさである。
日本武尊白鳥陵古墳
古墳のある風景 3 川上 恵
寂しい名を持つ天皇
英雄の父とやり手の妻、そして出来た息子。こんな家族に囲まれた男は不幸である。
父親は神話の英雄ヤマトタケル、妻は三韓征伐で、身重の体ながらお腹に石をまいて出兵した、かの有名な神功皇后。そして息子は、日本に文字や先進の文化を導入した先見の明ある応神天皇。実はこの息子の出生も誰の子か怪しいものだと、世間はかまびすしい。
私はそんな影の薄い仲哀天皇に同情をする。
だがそんな世俗を超越したように、大和のシンボル二上山を遠景とした仲哀天皇陵は堂々と端正である。
仲哀天皇は父が大好きだったそうだ。父の墓所も息子の墓所も近くである。会いたいと思えばいつでも会える距離にある。だが、妻の陵は奈良県佐紀古墳群と遠い。神がかりの妻とは離れた所で、静かに眠りたいのだろうか。
ところがである。最近この陵は倭の五王の武、つまり雄略天皇の陵墓ではないかとの説が有力になってきた。なるほど、そんな目でみると、ますますこの古墳は威風堂々と風格を持って見えてくる。そして仲哀などと寂しい名を持つ天皇は、その存在さえ儚げになってゆく。
仲哀天皇陵古墳
古墳のある風景 2 川上 恵
古室山幻想
藤井寺市でのお奨めはと聞かれると、葛井寺も道明寺も素敵だけれどと言いつつ、「古室山古墳」に案内する。彼らは納得いかなげな顔をするが、現場につくや「いいね!」と、被葬者不明の、謎の多いこの古墳に魅せられる。
あれは若葉の美しい頃だった。親指ほどの柿の実が翡翠かエメラルドのようだった。
辺りに人影はなく、私は桜の切り株に腰かけた。木漏れ日がチロチロと揺れていた。不思議な安らぎと、懐かしい優しさが私を抱きしめる。目を閉じると風の音が聞こえる。やがて微かに地中深くからざわめきの気配、鈴のような笑い声も。幻聴だろうか、柿の葉擦れだろうか。
ふいに、この下で眠っている人と、気の遠くなるほどの昔に出会ったことがある気がした。不思議な既視感。あまりの心地よさに一瞬、眠っていたのだろうか。
鳥がさえずっている。
いらい古室山古墳に眠っているのは、美しい媛だと勝手に決めつけている。梅や桜が基底部を裾模様のように飾り、秋には墳丘が丸ごと赤く染まる、その可憐さはまさに媛君の寝室。こんな事を言うと、偉い先生方に叱られるだろうか。
墳頂の柿の立木 緑の中の陵線