17.河内名所図会を訪ねて その十一 小山団扇②
・中野家の家業として
幕末安政(1854~1860)の頃、団扇屋浅野(麻野)伊左衛門は上納期限に間に合わないという不祥事をおかし、以後同じ村の職人「茂八郎(もはちろう)」が加わり、「両人御用請負」という形に移行しました。その後、結局伊左衛門は脱落したらしく、(中野)茂八郎さんだけが伝統を守り引き継ぐことになりました。明治に入ると団扇製造は中野家の家業となり、代々中野茂八郎を名乗り、近年まで小山の通りに「御団扇師 中野茂八郎」と看板を掲げてこられました。営利目的ではなく祖先伝来の名誉として継承し、人手を借りず一枝十数年の使用に耐える精良品を造り続けられました。昭和初期で一か年500本くらい。明治10年(1877)、大正3年(1914)、昭和4年(1929)とそれぞれ天皇行幸の際、大阪府を通じて、天覧、献上の光栄を得ました。大正6年(1917)に東宮行啓の際も御献上御嘉納を得ました。遠くの高貴の方からの注文もあったそうです。
昭和初期には既にそれまでの白、渋の二色に加えて紅・黄・青の色を加え、五色の団扇としていたようです。これは高級品で当時5円位したといいます。中野氏の晩年には一本5,000円、五色組みで25,000円でした。この道60年の中野茂八郎氏が、その年10数本の最後の大団扇を製作した後亡くなられたのは昭和45年(1970)で、同時に小山団扇も絶えてしまいました。
・小山団扇の復活
藤井寺市商工会では、昭和60年(1985)から伝統工芸品である小山団扇の復活プロジェクトに取り組まれ「小山うちわ展」や「うちわ教室」を開催しています。「うちわ教室」(団扇を作ります)はコロナ禍で昨年はありませんでしたが、一昨年までは行われていたそうです。市役所1階ロビー、藤井寺市商工会1階エントランスには実物の展示があります。ゆめぷらざでは「めざせ!小山団扇」というオリジナル手づくりうちわキット(わかりやすい「つくり方ブック」付)を販売中。税込み1200円です。
今回、藤井寺市商工会の常務田中義孝様に大変お世話になりました。田中さんは、『藤井寺市史』「小山団扇」の項の種本ともなった藤井寺市・藤井寺市商工会発行の『小山団扇』昭和61年(1986)の制作に若手の頃関わられ、復活プロジェクトにも尽力されています。手づくりうちわキットで作ったうちわも机上で立つのか尋ねましたところ、「立ちます!」とのこと。ただし中野茂八郎さんもされていた仕上げの工夫をする必要があるそうです。興味のある方は手づくりうちわキットで試してみてください。ちなみに今「日本三大うちわ」といえば、房州うちわ(千葉)、京うちわ(京都)、丸亀うちわ(香川、日本の団扇生産量の90%)だそうで、どこも伝統の製法の継承には苦労されているようです。 (2021年3月 中澤)
16.河内名所図会を訪ねて その十 小山団扇①

享和元年(1801)刊行の『河内名所図会』巻四には、名所旧跡が並ぶなか「名造小山團(うちわ)」の図があります。街道に面した店先の様子が描かれ、旅姿の侍、商売人などの男女の往来の賑やかさがあります。大きな祭うちわのような看板に「御團扇処 浅野」とあって、屋号は「浅野」であることがわかります。みやげ物として求める様子のお客で、店はなかなか繁盛しているようです。本文には、「名産小山団扇、小山村に製す。柄は丸竹にて骨細く、美濃紙を以て張、渋にて染る。花車(きゃしゃ)風流にして、多く香(にほ)ひをとむる。女子(にょし)、これを持あそぶ」とあります。
・名物としての小山団扇
その50年ほど前、宝暦4年(1754)に編集された『日本山海名物図絵』にも「河内小山団扇」としてとりあげられていました。「柄は丸竹にて、しぶうちわ也、大小いろいろ有、名物にて貴人、高家へも召上げられ、又、農工商売の人々にも賞翫せらるる団扇なり」とあり、高級品としても庶民の愛用品としても用いられたようです。また、奈良うちわと比較して「小山はつよきを専とし、奈良は花奢を第一とす」とあって、その特徴を言い当てています。小山団扇の最大の特色は、全体によく均整がとれており、机の上などに立てることができること。非常にていねいに、そして丈夫につくられており、実用品としては勿論、工芸品としても充分の価値を備えていることです。丈夫な渋うちわとして、菜種の種揉み作業の際、ごみを払い除ける「種うちわ」としても求められ使用されました。図の少し右に見える旅姿の侍は、団扇が立つことを確かめようとしています。

「元禄十五壬午年(1702)より大坂両奉行所様へ団扇上る。尤も六代前の伊左衛門」という記録が残っており、大坂両奉行所を経て将軍家への献上が始まりました。また享保7年(1722)より「御買上御献上」となって、これは明治維新まで続きました。献上の時は、団扇を両掛(りょうがけ)に入れ、御用団扇の札を立て、道行く人に道を開けさせたということです。また、このため町人ながら苗字も許され、浅野伊左衛門家は代々御用団扇師として家格を誇るようになりました。気になるお値段ですが、昭和61年(1986)発行の『小山団扇』では、1両を70,000円~100,000円と見た場合、献上品は17,500円~25,000円と非常に高価で、「お配り用」でも一本7,000円~10,000円くらいとあります。今ならいくらくらいでしょう?
・山本勘助
この小山団扇の起源について、由来書は次のように述べています。 「昔、永禄(1558~1570)の頃、武田家の謀臣山本勘助が三好氏の動きを探るべく河内国にやってきて葛井寺に足を留めた。三好の一族が小山の砦に立て籠り畠山氏と争うと、勘助はひそかに小山に仮寓し、姓名を匿して浅野文吾と称して、かくれみののなりわいとして団扇を製造、商った。ところがその製造する団扇は、其骨つよく、其面は清く、柄を座上に立てても倒れず、涼しい風を送ること世の凡扇の類にあらずと大層評判をとった。しかし彼の主意ではなかったから、その二年程後、この製法を小山の村人某に授けて飄然と立去った。後に山本勘助の世を忍ぶ業であったと知れた。村人某は製法のみでなく、浅野文吾の氏名さえ承継いで、一子相伝の秘法とし、小山団扇の名称を世上に高く掲げた……」
一般に、現在の一本の竹を細く割いて竹骨とし、両面に紙を張った形の、紙と竹による団扇が造られるようになったのは、室町時代あるいは江戸以降ともいわれています。庶民ことに女子の夕涼みの風景にともなうものとして流行するようになったのは、江戸時代の貞享~元禄(17世紀)のころです。小山団扇の起源もこの範囲ではないかということです。戦国期には、武将が軍の指揮、統率に使用する軍配団扇として団扇を用いており、権威と呪力と格式あるものとされていました。伝説的人物、山本勘助は兵法の大家であり、軍器全般の格式ある取扱いに関しては、その多くが彼の秘伝という形で伝承されました。ですから山本勘助と団扇の結びつきは決して突飛なものではないでしょう。個人的には山本勘助がその昔小山に住んでいたと信じたいです。
(2021年3月 中澤)
参考:秋山蘺島編、丹羽桃渓画、堀口康生校訂『河内名所圖會』
平山良彦、渡辺謙二、富賀肇『小山団扇』
藤井寺市・藤井寺市商工会 1986年
『藤井寺市史 第2巻』1998年
平瀬徹斎編著、長谷川光信画『日本山海名物圖會』
15河内名所図会を訪ねて その九 玉手山安福寺
“初蝉や 人松陰をしたふ比(ころ)”
“雲折りく 適(まさ)に青葉見ゆ玉手山”
と当時すでに景勝地として有名だった玉手山に寛政7年(1795)に一茶が訪れ「西国紀行」にしるしています。


安福寺(浄土宗知恩院派)は玉手山丘陵の中央部、玉手山公園北側の谷間に位置しています。行基によって開基された寺も中世には荒れ果て小堂が一棟残るのみでした。(建長年間(1249∼56)に親鸞の門弟慶西が復興したと記す記録もあります。)
寛文6年(1666)浄土宗の僧珂憶上人が小庵を構え、寛文年中(1667~70)寺を建立しました。この珂憶上人に深く帰依したのが尾張二代目藩主徳川光友公でした。徳川光友公の手厚い庇護のもと上人は寺を再興されました。また光友公は珂憶上人の学徳を尊敬し、さまざまな宝物や寺田を寄進しました。(寺宝・山水蒔絵硯箱他2点は国指定重要文化財)
本堂には阿弥陀仏象を本尊とし左に珂憶上人木像、右に尾張歴代藩主の位牌を祀る。本堂は総欅造り屋根が低く、梁、柱が太く確実牢固で地震や台風にびくともしない強い造りになっています。この造りを「聖徳太子式珂憶建て」と呼ばれています。

法隆寺を建立した渡来人の大工仲間の一部の人達が河内に移住しその伝統を受け継ぐ集団の技術を珂憶上人が採用したことに由来すると言われています。
玉手山付近は古代尾張村の本拠である安宿郡(あすかべぐん)尾張郷の地でした。尾張との結びつきが強く、この地は珂憶上人と光友公が出会う前から尾張徳川家に縁があったのです。
寺の後方に広がる玉手丘陵には4世紀に作られたと思われる10数基の古墳があり安福寺の所有地の中には7号墳があります。そこを利用して(境内最上部)玉垣を巡らせた3基の宝篋印塔 があります。中央に尾張二代目藩主徳川光友公、左に夫人の松寿院殿と右に三男(実際は長男)松平義昌の石塔が建てられています。
そして、玉手山7号墳の後円部には珂憶上人建立の大坂夏の陣戦没者供養塔が建っています。慶長20年(1615)5月6日豊臣方西軍・徳川方東軍の両軍がこの地で激突。片山、玉手あたりから道明寺付近一帯は多くの戦死者を出した古戦場です。墓所も定まらない戦死者の霊を慰めるために珂憶上人によって建立されたのです。
・安福寺所蔵夾紵棺(あんぷくじしょぞうきょうちょかん) 寺宝・柏原市有形文化財
夾紵棺とは、布に漆を塗って何層にも貼り重ねて板状にして作った棺のことです。安福寺が所蔵する夾紵棺の一部は絹布を45層張り合わせて作ったもので、絹を使った棺は安福寺の夾紵棺のみで、最高級品と言えます。身分の高い人の棺と見られ、聖徳太子の棺ではないかとの説もあります。(昭和33年猪熊兼勝氏安福寺で見つける)
珂憶上人より大和額安寺の仏舎利2粒を聖徳太子廟に寄付をいただいた。夾紵棺はこの仏舎利寄進のお礼として手にしたものかもしれません。
境内には、割竹形石棺、安福寺横穴群が残る。
・ 他に安福寺と関係のある人の墓
江戸深川霊厳寺・珂山の墓。浄真寺・珂碩上人の墓と位牌。竹中半兵衛の墓と位牌。 石丸石見守定次の墓と位牌。畠山義真の墓と位牌。他 (2021年 菱木)
(参考) 秋山蘺島編、丹羽桃渓画、堀口康生校訂『河内名所圖會』
14.河内名所図会を訪ねて その八 允恭天皇陵
允恭天皇陵は土師ノ里駅の北側にあり、墳丘長230mの大きな前方後円墳です。しかし、河内名所図会には挿絵はなく、『沢田村にあり。恵我長野北陵と号す』とだけあり、また周辺には小塚が13あったということが書かれています。

・盟神探湯(くがたち)
允恭天皇は、父君の仁徳天皇や、子の雄略天皇に比べてあまり有名ではありません。「古事記」によると、允恭天皇は病を長く患っており、初め皇位の継承を辞退しましたが、周りの説得により天皇となります。即位の折に訪れた新羅の大使の医薬により、やがて病は治癒しました。
元気になった天皇は、かねてより考えていた氏姓の乱れ(家柄・身分の詐称)を正そうとします。そこで、甘樫丘に熱湯を沸かす釜を据えて盟神探湯の儀式を行います。これは神に誓約をしてから熱湯の中に手を入れて神意を問うものです。氏姓が正しければ火傷はせず、偽っていれば大火傷をするとされていました。今から考えると恐ろしい儀式ですが、このように神の声を聴くことで諸問題を解決したのでしょう。
古事記を編纂した太安万侶はその序文で氏姓を正した業績をたたえています。
・綿づくり
古墳は貴人の墓として造られたものですが、時代を経るとともに周りに住む人たちとの生活と密接につながっていきました。江戸時代末期の文久年間に御陵の改修にあたり描かれた荒蕪図(改修前の図)を見ると、古墳の中で綿や果実を栽培しているのがわかります。この古墳は別名「綿山」とも呼ばれており、この画中に黄色く描かれているのは綿の花と思われます。この古墳も河内木綿の歴史に一役かっていたのでしょう。

そういえば私が子どものころ、市役所の南側に木綿を扱った工場がありました。また、その近くに綿に関する石碑が立っていたのを覚えています。
(2020年11月 松村)
(参考) 秋山蘺島編、丹羽桃渓画、堀口康生校訂『河内名所圖會』
『広報ふじいでら』ふじいでら歴史探訪38 2010年3月号
外池昇編『文久山稜図』2005年
13.河内名所図会を訪ねて その七 雄略天皇陵
・迷子の天皇陵
私の家の窓から、毎日雄略天皇陵が見える。 拝所のある島泉平塚古墳のうっそうとした樹木は、大王級の貫禄を見せているのだ。 しかし、「河内名所図絵」(図絵)に描かれているのは、円墳のみで、雄略天皇陵と書かれています。
この円墳こそが、雄略陵であり、古市古墳群の中では、最大の円墳だ。 でも、当時の大王墳は、前方後円墳が常識なので、現在の仲哀天皇陵こそ、雄略天皇陵だともいわれています。 築造時代や大きさから、これくらい大きくないと不自然だと言われています。
ましてや、雄略天皇は、倭の五王の「武」であると考えられている。 そして、大王の後継争いを切り抜けて王位についた、実力ある大王だ。 だからこそ、美しい円墳ではあるが、あまりにも小さすぎと言われるのも頷ける。

・図絵に見える「旗山」と発掘調査
図絵を眺めると、手前に小さな隼人塚が見え、そこから善光寺の方向には、旗山と書かれた方墳らしきものが描かれている。 旗山は、現在の自動車学校の南に位置している様に見える。
その方向(おおむねだが)を見ると、現在遺跡調査が大々的に行われている。 かなり、熱心に調査中である。
土を掘り起こすユンボの音を聞きながら執筆していると、古代の溝から三体の人物埴輪を発見したというニュースが飛び込んで来た。どこの古墳のものか不明というが、旗山と関係があるのだろうか? 旗山は、現在の雄略陵の前方部になっている可能性が大きい。 それでは、図絵に描かれる以前に埋もれた古墳が別にあったのだろうか? この地域には、他の小さな古墳が有っただろうと思われているそうです。 少なくとも、他の古墳が有ることが不思議ではない。 想像すると、期待感が広がってきます。 この、雄略天皇陵とされる美しい円墳の謎の解明に、少しでも役立ってくれる発掘となれば良いのですが。 古墳時代は、苛立たしいほど諸説が飛び交っている。 だからこそ、古墳にはロマンがあり、面白いのだろう。
・偉大なる大王
雄略天皇は、ワカタケルと呼ばれていました。 日本史上、実在が証明されている最古の大王だと言われています。 有名な埼玉県の稲荷山古墳の鉄剣に、ワカタケルとあり、熊本県江田船山古墳からも、「治天下獲□□□鹵大王世・・」と書かれた鉄刀が出土されています。 面白い事に、埼玉県から南九州までのヤマト王権の勢力を示す証拠です。
そして、最初の専制君主と言われています。 その偉大な大王の古墳は、どれなのだろうか? (2020年9月 林)
12.河内名所図会を訪ねて その六 道明寺
~梅園をさがせ~
毎年2月になると「梅まつり」でにぎわう道明寺天満宮の梅園。「河内名所図会」には、梅園が見当たりません。もちろん「梅」は描かれているのですが、あちこちに、少しずつ植えられており、これは前回紹介した「道明寺往古伽藍図」でも同様です。「河内名所図会」の道明寺・本社の図には、現在の梅園の位置に「とくほう院」という文字が読み取れます。
・得宝院
江戸時代に二度にわたる水害で大きな被害を受けた道明寺は、復興のため、京・大坂で霊宝の出開帳を行い、多くの人々からの援助を受け再建することができました。その一人が、三井八郎右衛門高方(三井家の創業者三井高利の孫)でした。
八郎右衛門高方は、その後、道明寺の境内に先祖代々の回向供養として「得宝院」を建立し、寄進しました。これ以後、道明寺に対し三井家から経済的援助が続きました。
明治の初めに行われた神仏分離令によって、引っ越しを余儀なくされた道明寺ですが、引っ越しには莫大な費用が必要になりました。そのため、もとの本堂を売り払いその費用に充て、「得宝院」を新しい道明寺の本堂としたといわれています。
・梅園
天満宮の梅園は、昭和40年代に入って整備されたもので、現在約80種類、800本の梅が植えられています。中には、歌舞伎俳優片岡仁左衛門さんが、道明寺ゆかりの「菅原伝授手習鑑」の公演の成功を祈願し献木されたものもあります。梅園にお越しの際には、ぜひ探してみてください。(2020/5 小田島)

道明寺本堂 片岡仁左衛門の梅(2019年11月撮影)
参考文献 藤井寺市史第3巻・第5巻
道明寺天満宮宝物選
11.河内名所図会を訪ねて その五 道明寺
~天満宮をさがせ~
一度でも、お参りされたことのある方は「おや?」と首を傾げられるでしょう。この河内名所図会に描かれた場所は、現在、道明寺天満宮です。河内名所図会の文中には「天満宮」とありますが、絵の中には道明寺天満宮の名を見つけることができません。絵図の表題は「道明寺・本社」とあります。

・土師の郷
この辺りは、古墳造りに活躍した土師一族の郷でした。道明寺は聖徳太子の発願に応じて、土師八嶋が尼寺として創建したもので、「土師寺」と言われていました。そして、北側の高台には、土師氏の祖先神を祀る「土師社」がありました。菅原道真公はこの土師氏の子孫で何度もこの地を訪れるなどたいへんゆかりのある方でした。天神信仰の高まりともに道真公の幼名や和歌にちなんで「道明寺」「道明寺天満宮」と呼ばれるようになりました。また、道明寺は道真公の叔母君覚寿尼様をはじめ、代々、公家出身の尼君が住持される格式のある尼寺で、天満宮などのお祀りもこの尼君方が行ってこられました。そのため、寺社を総称して「道明寺」と呼ばれていたのです。
・道明寺の引っ越し
これは、「道明寺往古伽藍絵図」というもので、現在の道明寺天満宮の石段の下に堂塔伽藍が並んでいるのが分かります。もともと道明寺はこの地に創建されたものだったのです。ところが、織田信長の河内攻めで被災し、江戸時代には二度にわたる石川の氾濫によって、多くの堂宇を失いました。そこで、水害の心配のない、高台に引っ越しました。本社(天満宮)と本堂(道明寺)が並んで描かれた河内名所図会のできたころは、天神信仰が庶民にまで広がり、浄瑠璃や歌舞伎の舞台にもなった道明寺は河内の一大観光スポットだったのです。

二度目の引っ越しは、明治元年の神仏分離令によるものでした。この時、もとの境内は道明寺天満宮となりました。一方、道明寺は廃寺になる寸前でしたが、尼君方の奔走や地元の人々の嘆願によって存続が決まり、東高野街道を挟んで西側の地に引っ越すことになりました。それが、現在の道明寺です。
(2020/3 小田島)

10.河内名所図会を訪ねて その四 道明寺
~白太夫(しらたゆう)をさがせ~

もくげんじゅ
河内名所図会の「道明寺」をみると、南大門の北、東高野街道沿いに“もくげんじゅ”という文字が読み取れます。“もくげんじゅ”とは、「木槵樹」という木で、秋には、黒くて丸い小さな実をつけます。
この木の生えている西宮は、謡曲「道明寺」の舞台になったところです。謡曲「道明寺」は、夢のお告げで道明寺にやってきた相模の国の僧尊性が、一人の老人に出会い、この木槵樹は、菅原道真公が五部の大乗経を埋めた経塚に生えたもので、その実を108個集めて数珠を作り、念仏を百万遍唱えると極楽往生ができる、と教えられる物語です。
この、老人こそが、「白太夫」だったのです。白太夫は、もともと、伊勢の神官で道真公の誕生にかかわり、以後、おもり役として常にお傍にあり、道真公の最期をもみとります。若いころから、白髪であったのでこの名があると言われています。

白太夫はどこに
さて、再び河内名所図会に目を通すと、「白太夫祠、境内にあり」と書かれていますが、その場所は特定できません。 いったいどこにあるのでしょう。
見つけました。寛政3年(1791)に道明寺から寺社奉行に提出された書類に中に、境内の絵図がありました。それによると、拝殿のすぐ前の、絵馬堂と参道の間の部分に置かれていたようで、やはり、道真公のすぐおそばにいたことになります。
道明寺を舞台にした、もう一つの作品「菅原伝授手習鑑」では、この白大夫は、道真公が名付け親となった三つ子の兄弟、梅王丸・松王丸・桜丸の父として登場します。延享3年(1746)初演の「菅原伝授手習鑑」は、人形浄瑠璃や歌舞伎の演目として、大変人気を博した作品でした。この白太夫祠も多くの人々が、お参りされたのではないでしょうか。
では、現在、白太夫の祠はどこにあるのでしょう。きっとおそばにいるはずなのですが・・。明治になって、引っ越しをされたようです。道真公からちょっと遠くになりましたが、お声がかかれば、聞こえる距離です。備前焼の狛犬さんがお守りしています。道明寺天満宮にお参りの際は、ぜひ、探してみてください。(2019/12 小田島)

(参考) 秋山蘺島編、丹羽桃渓画、堀口康生校訂『河内名所圖會』 『藤井寺市史』(第5巻) 『一冊でわかる歌舞伎名作ガイド50選』(成美堂出版)
9.河内名所図会を訪ねて その三 辛國神社

葛井寺を描いた挿絵の左下に見えるのは辛國神社です。「三社」とあるのは文字通り社が3つ並んでいるからでしょう。中央の本殿に饒速日命と天児屋根命、向かって右の脇殿に品陀別命、左の脇殿に市杵島姫命の4柱を祀り、江戸時代は岡村の氏神社として春日社または春日大明神と呼ばれていました。
辛國神社は式内社ですが、創建の由緒は古墳時代まで遡ります。祀神の由来を辿ってみましょう。
『日本書紀』雄略13年に「餌香の長野邑を以て、物部目大連に賜ふ。」とあります。餌香長野は藤井寺市を含む地域の古代地名です。物部氏は祖神・饒速日命を祀りましたが、丁未の乱(587年)より後は物部一族の辛國氏が祭祀を引き継いだとされます。
室町時代に河内守護の畠山基国が春日大社から天児屋根命を勧請し、社領200石を寄進しました。基国は楠木正儀追討の命を受けて河内国守護に任じられ、その後の畠山氏による河内国支配の礎を築いた室町幕府の重臣です。
明治時代に古来の名称である辛國神社に改称し、葛井寺境内の南西隅に鎮座していた長野神社の素盞嗚命を合祀しました。挿絵に2基の鳥居が見えますが、現在の二ノ鳥居は合祀に際して移設したもので、柱に長野神社と刻まれています。前回紹介した『葛井寺参詣曼荼羅』の左下に見える鳥居は、長野神社あるいは辛國神社どちらの鳥居でしょうか。

昭和62年に竣工した現社殿は、拝殿-幣殿-祝詞殿-本殿と連なる複合社殿で、本殿は物部系の神社に多い三間社流造を採用しています。本殿は内部を3つに分けていて、中央の主殿に饒速日命・天児屋根命・素盞嗚命の3柱、向かって右の相殿に品陀別命、左の相殿に市杵島姫命の合わせて5柱を祀っています。
春日天満宮の社殿は春日造りの旧本殿を移設したものです。当初は権殿としていましたが、勘違いして手を合わせる参拝者が後を絶ちませんでした。藤井寺市の西地区にも学問の神さまがほしいという地元の声があったので、平成5年に北野天満宮から菅原道真公を勧請しました。
奥行き100間(180m)の参道を持つ鎮守の森は、大阪を代表するみどりの景観として「大阪みどりの百選」に選ばれています。挿絵に描かれた鎮守の森は松林ですが、現在は椿などの広葉樹も育ち、新緑の頃には緑の濃淡を楽しむことができます。かしわ手の音がよく響くのは、境内が木立に包まれているからでしょう。

なお、挿絵の右下に「反正天皇御廟」が見えますが、解説は「仲哀天皇陵 葛井寺の南。岡村の管内にあり。」と食い違っています。なぜでしょうか。
17世紀後半の『河内鑑名所記』は、藤井寺の挿絵に剛琳寺(葛井寺)と反正天皇陵を描いています。また、「反正天皇御陵 ふち井寺の南にあり <ミさんざい と里人云> 岡村領内と也」と解説しているので、これが元ネタでしょう。しかし、『河内名所図会』の編者・秋山蘺島は『前王廟陵記』や『日本書紀』を考証して、この陵を仲哀天皇陵としました。挿絵を描いた丹羽桃渓は『河内鑑名所記』を鵜呑みにしたのかも知れません。
(2019年7月 古川)
(参照)
秋山蘺島編、丹羽桃渓画、堀口康生校訂『河内名所圖會』
(1975年 柳原書店)
坂本太郎、他 校注『日本書紀』(1994年 岩波文庫第3巻)
三田浄久『河内鑑名所記』(1980年 上方芸文叢刊刊行会)
8 河内名所図会を訪ねて その二 葛井寺

葛井寺は西国三十三所観音霊場の五番札所として、平日でも多くの参拝者が訪れる古刹です。聖武天皇の勅願による建立、阿保親王の再建と『葛井寺勧進帳』(1510)は伝えますが、歴史的には渡来系氏族である葛井氏が8世紀に建てた氏寺と考えられています。本尊の国宝・千手観音菩薩坐像は、脱活乾漆造りという奈良時代に盛行した技法で造られており、端正な顔つき、伸びやかな肢体と衣の表現は天平彫刻の最高傑作の一つとされます。一般的な千手観音像は42本の手で千手を表しますが、実際に1000本以上の手を持つ本像は数が少なく貴重な仏さまです。

『河内名所図会』に描かれた境内を見ると、南大門と本堂を南北の中心軸に置いて護摩堂、二十五菩薩堂、大師堂などが境内を取り囲んでいます。本堂は江戸中期の延享元年(1744)から30年近くかけて再建され、諸堂の多くも前後して建てられました。戦国時代の戦禍や地震によって荒廃していたのです。葛井寺で最も古い建築物は豊臣秀頼が寄進した西門で、重要文化財に指定されています。

『葛井寺参詣曼荼羅』は室町時代の境内を描いた貴重な資料です。西門脇の掲示板に説明があるので、お参りの際はご覧下さい。本堂手前の左右に三重塔、さらに中門と南大門が描かれていて、薬師寺式の伽藍配置を持っていたことが分かります。本堂前の灯篭は紫雲石灯篭でしょうか。西国巡礼中興の祖とされる花山法皇が巡拝されたとき、紫雲が本尊の眉問から灯篭までたな引いた故事が命名の由来とされます。その折に詠まれた「参るより 頼みをかくる 葛井寺 花のうてなに 紫の雲」は御詠歌となりました。なお、本物は本堂裏の庭に移設、保存されて、現在、境内にある紫雲石灯篭は複製品です。
『河内名所図会』に戻ると、西門に面した道が大坂道です。天王寺から古市までを結び、途中、平野、藤井寺、誉田を通ります。江戸時代の俳人・小林一茶は寛政7年(1795)に河内を訪れましたが、『西国紀行』の内容から大坂道を歩いたと思われます。葛井寺を詠んだ句は「藤咲くや 順礼の声 鳥の声」。
絵図左下に「三社」とある神社は、現在の辛國神社です。次回は辛國神社を紹介します。(2019年4月 古川)
(参照)
秋山蘺島編、丹羽桃渓画、堀口康生校訂『河内名所圖會』
(1975年 柳原書店)
『藤井寺市史』(1、2、7、10巻、各説編)
「西国紀行」『古典俳文学大系15』(1975年 集英社)
7 河内名所図会を訪ねて その一 応神天皇陵
藤井寺はどんなとこ? 今はインターネットやガイドブックで居ながらにして情報を得ることができます。こうした名所の情報提供は、江戸時代後期の「名所図会」の発刊が始まりと考えられています。 藤井寺あたりのガイドブックといわれたのが享和元年(1801年)発行の「河内名所図会」(文:秋里蘺島、絵:丹羽桃渓)でした。名所の景観を写しながら年中行事や四季折々の風俗なども描き出し、旅の楽しさを沸立たせるようになっています。約200年前の「河内名所図会」に描かれた藤井寺やその周辺の名所が現代にも引き継がれている場所を訪ねます。

現在は、後円部北側(上辺)の前方部が遥拝所
初回は「応神天皇陵古墳」です。古くから「応神天皇陵(おうじんてんのうのみささぎ)」として信仰され、河内の名所として知られていました。藤井寺市と羽曳野市にまたがる台地の高所にあり、約1600年前の5世紀前半に建造された長さ425mの大型前方後円墳です。
図会では、高さ35m、径250mの大きな後円部頂上に六角堂(誉田八幡宮奥院)があり、それにつながる参道の両端に桜が描かれています。また、秋には神輿を奥院へ神幸する時に渡る石反橋(いしそりばし)も描かれています。残念ながら陵全体の大きさは描かれていませんが、当時はこうした景観こそが見どころであったようです。陵の周辺は、高野山へ向かう東高野街道や大坂街道がありましたので、多くの旅行者たちがお参りし、この景観を楽しんだに違いありません。大きな後円部や水を蓄えた濠や堤。現在では立ち入ることのできない墳丘の様子がわかります。また、参道に向かう入り口には祠があり、陵と誉田八幡宮との係わりもわかります。


現在は、六角堂や参道、祠は廃止され、墳丘は樹木に覆われ、図会の景観を遠望することはできません。前方部の遥拝所から外堤を歩くとその巨大さが実感でき、誉田八幡宮北側にある石反橋(放生橋)付近に立つと、図会に描かれた景観を思い浮かべることができます。江戸時代に人々が感じた陵の価値観は現代と違っていますが、1600年前の遺産を大切にし、将来に引き継ぐ気持ちは変わっていないように思われます。 (2018年12月 勝部)
(参照)秋山蘺島編、丹羽桃渓画、堀口康生校訂「河内名所圖會」(1975年 柳原書店)
6 大和川にかかる橋 その3 遊園地へ誘う吊橋「玉手橋」

日本最多径間の吊橋
石川をはさんで、藤井寺市道明寺と柏原市石川町・玉手町を結ぶ「玉手橋」は、幅3.3m、長さ151mの多径間吊橋で、日本最多の5径間吊橋として、昭和3年(1928)、大阪鉄道によって架橋されました。昭和初期の形態をほぼ残しており、地域の社会経済的な背景を写す近代の構造物として価値があることから、平成13年(2001)に吊橋としては全国初の登録有形文化財になりました。
架橋以来、歴代の鉄道会社によって管理されてきましたが、昭和28年(1953)に柏原市へ引き継がれ、今日に至っています。部分的に損傷もみられ、必要に応じて補修されていますが、最近では昭和59年(1984)にケーブルの補強工事、平成10年(1998)には塗装工事が行われました。
この吊橋は、明治41年(1908)開園の玉手山遊園地への玄関口にもあたり、親しまれてきましたが、その遊園地も平成10年(1998)に廃園となりました。現在では、玉手山丘陵付近には、住宅が広がり、工業団地も立地し、通勤、通学、買い物などで地元の人に利用されています。
増水のたびに流された仮橋
明治41年8月(1908)、柏原~長野間に蒸気機関車を走らせていた河南鉄道が、「一般公衆遊客ノ清遊ニ供ス」として、玉手山丘陵に玉手山遊園地を開園しました。東京浅草の「はなやしき」に次いで日本で2番目に古い遊園地だと言われました。当時、道明寺方面から遊園地に行く人は、石川に架かっていた板の仮橋を渡っていましたが、この仮橋は、石川が増水するたびに流出しましたので、下流約150mのところの石川橋を渡り、石川・玉手の村をとおり、遠く迂回して遊園地に行かざるをえませんでした。いずれにしても大変不便でしたので、河南鉄道から社名変更した大阪鉄道が、開園から20年後の昭和3年に最新式の吊橋を架け、「玉手橋」と名付けました。
鉄道会社が列車の通る鉄橋ではなく、歩道橋を架橋したのですから驚きますが、この年には、道明寺~長野間の複線化が完成し、藤井寺球場も竣工しており、鉄道各会社の誘客による多角経営の拡張が背景にあったようです。
参考資料3)
景観に配慮した吊橋
吊橋を支える4つの塔は、橋板をはさんで上下に円弧アーチを配し、塔と塔を結ぶ5組の主ロープの放物線も美しく、とてもお洒落な吊橋です。架橋当時は周りの丘陵や古墳などの景観と一体となっていて、橋を渡って遊園地に向かう人たちの気持ちは高ぶったに違いありません。
主ケーブルを固定させる大きなコンクリートブロックの親柱は、石川側と道明寺側の両岸にはめ込むように固定され、その道明寺側の親柱の根元に花崗岩製の嵌め石があります。今は、半分くらい埋まっており、刻まれた文字はほとんど判読できませんが、そこには、右から「技師樋口辰太郎 設計主任宮本治嗣 工事監督浅野順一 竹内徳市 工事請負松安善吉」と架橋工事に関わった技術者の名前が刻まれています。モデルとなった橋梁は明らかではありませんが、昭和初期に、景観に配慮し、お洒落な橋を架けた技術者たちの気持ちが伝わってくるようです。
この塔の下に嵌め石のある親柱がある
眺望よい山頂
玉手橋架橋のきっかけとなった玉手山遊園地は、大鐡全史によると「山頂を国見ケ丘と呼び、見晴しよく、ここに立てば西北の煤煙にけむる大阪市、晴天には淡路島も望まれた。石川が銀蛇の尾をひき、河内の沃野は一望できる。春には紫つつじの色あざやかに、土筆つみも面白く、秋には松茸狩りに興趣が深い。運動用具、無料休憩所を設備し、一家揃っての散策に好適な施設である」と当時の様子を振り返っています。
また、その頃の園内の様子を伝えた朝日新聞には「・・近頃追々繁盛し、料理店の河芳亭を始め数軒の茶店できたれば飲食するには便利よし国見(くいみ)が丘の名に背かず、大和川の築留を右に控えて眺望すぐれたり・・」(明治41年4月5日)との記事があり、飲食店もあったことがわかります。大阪の湊町(現在のJR難波駅)発長野行列車は平日1時間ごとに運転され、湊町より道明寺往復26銭でした。玉手橋付近は、大坂夏の陣道明寺合戦の戦場ともなった場所です。NHK「真田丸」ブームもあり、最近では戦跡を巡る人たちが渡っていることも少なくありません。
(勝部 2016/12)
参考資料 5)
参考資料
1)『文化財基礎調査概報―近代遺産』柏原市教育委員会、2003
2)『大鐡全史』近畿日本鉄道㈱、1952
3)石田成年「近鉄南大阪線の歴史をたどって」『近畿文化671号』近畿文化会事務局 2005
4)石田成年「近鉄南大阪線の歴史をたどって」『近畿文化782号』近畿文化会事務局 2015
5)西條一雄「70周年を迎えた玉手山遊園地」『ひかり盛夏号』近畿日本鉄道㈱社内誌 1978
*今回でシリーズ「大和川にかかる橋」を終了します。
5 大和川にかかる橋 その2 村の中に架けられた「農通橋」

図1 農通橋(河内国志紀郡大井村絵図)安政3年(1856年) (資料2:第十巻)

図2 「農通橋」想定地
国道170号線新大井橋の上流約400mのところに、昭和の初めごろまで、藤井寺市大井と川北を結ぶ橋がありました。
今から約310年前の宝永元年(1704)に付替えられた大和川によって志紀郡大井村(現藤井寺市大井)は、南の集落と北の耕作地に二分され、耕作地へ行くためには大変な不便と困難が生じました。村の中を自由に行き来できる橋を架けることは人々の悲願でした。
(1) 徒歩で川を渡る「徒歩渡」
付替え後、人が川を渡るのは、徒歩又は舟でした。中・東高野街道など主要な街道筋には、舟着場や舟乗場の舟渡場が整備され、舟賃を払って舟で川を渡っていました。そのほかは、徒歩で川を渡っていました。大和川は幅が200m近くもある大川ですから、大雨による洪水や寒中の時などは、土地の人でも立ちすくんでしまいます。村人たちは、どんなふうに渡っていたのでしょうか。
天保末年(1840年頃)頃に作成されたと伝わる「旧大和川跡略図」(図3参照)によると、大井村の北に「幅百間(約180m)の歩行渡」がありました。人足が板の上に人や荷物を載せて渡る渡し場があったのでしょうか、それとも、中洲の川底の浅いところを選んで渡るルートのことだったのでしょうか。残念ながら、渡る様子の記録は残されていません。

図3 歩行渡(舊大和川跡略圖 天保末年)(資料1)
(2) 下流の村に「野通橋」
付替えから数十年経った頃、下流の丹比郡(現松原市付近)の村では、大和川を渡って耕作地に行くための「野通橋」(注1)が架けられました。橋といっても、あまり丈夫なものではなく、洪水の際には流されるような簡易なものだったようです。
明和7年(1770)頃の大和川の状況を描いた「大和川筋図巻」によると、丹比郡の3ヶ所に「野通橋」が架けられていたことが確認できます。しかし、大井村には、まだ、この時期、橋はかけられていなかったようです。
(3) 大井村にも「農通橋」
その後、年代は不明ですが、大井村にも「農道板橋」が架けられ、「農通橋」と呼ばれました。天保14年(1843)、大井村から藩役所に提出した「河内国志紀郡大井村明細帳」には、大井村に「農道板橋」壱カ所が架けられていたとの記録があります。
橋の長さは「川幅と同じ102間半(約185m)」。修復料として「銀500匁(注2 約50万円超)が公儀より与えられ、必要な根杭材や人足賃も支給された」と記録されています。安政3年(1856)作成の「大井村絵図」(図1参照)には、現在の大井3丁目誓願寺の北と川北3丁目の南を結ぶ「農通橋」が描かれています。ずいぶん立派な橋にみえます。
嵩む修復費用
村人の悲願かなって架けられた橋でしたが、大雨のたびに橋が浮き、渡ることさえもできない状況がたびたびあったそうです。
幕末の慶応年間になると、橋の維持経費が毎年多額にのぼり、護岸のために柳2万本を挿す人足、堤修復費用など「大和川のおかげで多額の物入りが嵩んできている」と村役人が嘆かざるを得ない状況でした。そのうえ、大井村は、何回となく大和川決壊による家屋、農作物の被害をうけましたので、村人の困窮は悲惨の極に達していたそうです。
木橋に架け替え
明治になると、各地の橋は歩くための道路から荷車、荷馬車で荷物を運ぶための道路に整備され、この「農通橋」もしっかりとした木橋(図4参照)につけかえられました。地元では「大井橋」と呼ばれていたようですが、命名に関する資料は見当たりません。
この橋は、明治9年「大井村橋梁樋管堤防明細表」によると、「長さ百間、幅4尺(約1.30m)、高さ1間半(約2.7m)」ありました。しかし、この時代は「皆民費ヲ架之」、即ち、費用は全額地元負担でした。

図4 農通橋(明治41年測量図)(資料2:第10巻)
(4) 「大井橋」から「新大井橋」へ
昭和になると、車時代に対応した橋の整備が全国で進み、この「橋」は、昭和11年(1936)、下流約400mのところ(現水道管施設)に、2車線のコンクリート製の「大井橋」(注3)として新たに架けられました。
さらに、上流約600メートルのところに昭和13年(1938)に「河内橋」が架けられ、河内の南北を結ぶ交通網が整えられました。 昭和45年(1970)、大阪万国博覧会にあわせて国道170号線の整備が行われた時に「大井橋」のすぐ東隣に四車線の現在の「新大井橋」が架けられました。
河内の南北を結ぶ主要幹線道路になっている「新大井橋」のルーツは、村民が苦労して維持し、守ってきた「農通橋」だったのです。 (1016/8
勝部)

図5 左:新大井橋、右:旧大井橋、現在水道管
(注1)「野通橋」は「やどおりばし」、「農通」は「のうどおりばし」。資料にはふり仮名が無いので正確な呼び名はわかりませんが、他の地域の地名例などから推測しました。
(注2)「1両6万円」として換算。日本銀行HP「貨幣博物館」によると「江戸中期~後期は、1両は4~6万円」。江戸時代は貨幣価値の変動が激しく、時代によって換算率が難しく、諸説有るそうです。
(注3)大井橋の橋脚は、今でも4本の水道管を支える脚として再利用されています。当時の大井橋の規模がわかります。
(参考資料)
資料1 「大阪府誌」第四編(1970)
資料2 「藤井寺市史」
第二巻通史編二(2002)
第六巻資料編四中(1988)
第十巻資料編八上(1991)
資料3 「柏原市史」第三巻(1972)
資料4 堺市博物館編「大和川筋図巻をよむ」堺市博物館(2015)
資料5 中九兵衛「甚兵衛と大和川」(2004)
資料6 天野寿男他編「大和川付替えと流域環境の変遷」㈱古今書院(2008)
4 大和川にかかる橋 その1新大和橋
新大和橋は、藤井寺市舟橋町と柏原市上市にまたがって、明治7年に架けられました。大和川付け替えから170年後のことです。現在は、全長204㍍、幅員2㍍の大阪府道802号八尾河内長野自転車道線自転車・歩行者専用道路で、大阪府富田林管理事務所が管理をしています。
架橋当時からほとんど同じ大きさで、位置も変わることなく、人道として今日まで継続している橋は多くありません。地元の人たちが大変な苦労をして橋を架け、郷土の誇りとして大切にしてきたからではないでしょうか。
苦労して架けられた様子は、柏原市史第三巻に詳しく当時の架橋に係わる資料が第五巻に多く収録されています。

架橋の願い
船橋辺りには、河内国府があったとされ、東高野街道、奈良街道、長尾街道が交差し、古くから交通の要衝でした。しかし、これらの街道は、いずれも大和川と石川に遮られ、洪水になると船留になり、急用のある人は大変困っていました。明治になると、人や物の流れが活発になり、付近の村人たちのみならず大和・河内・摂津の広範囲の村々からも橋を架ける願いが起こりました。しかし、明治の初め頃は、道路や橋の整備費は原則として地元各村の負担でしたので、この辺りの貧乏な村々では到底自力での実現は不可能でした。それで、そのままになっていたのです。
地元負担で掛けられた橋
明治6年5月、堺県は、通行難渋の場所には早く架橋するよう布達しました。上流の柏原村に国豊橋も架けられ、河内周辺の県道整備も進んできたので、明治6年11月、柏原村、舟橋村、国府村、弓削村、市村新田、田井中村、道明寺村の各戸長が発起人となり、県に『架橋御願書』を提出し、大和川に橋を架ける工事を行うことになりました。架橋費用は全て「他力勧進」、即ち地元負担で賄わなければなりません。発起人は、架橋の許可がおりると直ちに、『新架橋勧進帳』に橋の完成絵図を添付して、各村に寄付を募りました。
(柏原市史)
大和橋の架橋を利用
寄付金が集まっても新木材を買い入れての新築の架橋は困難でしたので、その資金調達に苦慮していました。その頃、下流の堺の大和川に架かっている大和橋は、腐朽がおびただしくなったため、仮橋を作って付替え工事を行っているところでした。完成すれば工事中に使用した仮橋はいらなくなることを知り、堺県に『御願書』を願い出、仮橋の払い下げを嘆願しました。ところが、すでに落札済みでしたので落札人に手数料を上乗せして、ようやく払い下げを受けることができました。 この仮橋の腐朽部分を取り除き、不足木材を補い、堺の業者が新橋建設工事を請負うことになりました。
新大和橋完成
こうして、明治7年1月末着工、一ヶ月後の2月末に完成。長さ108間(196.4m)、幅一間半(2,7m)、高さ2間半(4.5m)、両手摺付で、県より新大和橋と命名されました。この名前は堺の大和橋との関連が意識されているといわれています。
工事費総額は、約823円。そのうち約9割は寄付金で集まりましたが、残りの1割は、県からの寄付と世話人が追加の寄付をして、なんとか決済をしました。
かさむ維持・修復費用
完成後の新大和橋は、架橋工事にも増して、その維持のために苦労しました。新しい橋が架かってから2カ月も経たないうちに、牛車や荷車が重荷を積んで通行するため、橋板には穴があき、手摺が壊れるなど損傷が著しくなりました。明治10年、県へ届けた『橋梁修繕願』には、「渡船が流され橋枕にひっかかり、橋梁が6間(11㍍)にわたって流された。また、ある時は、橋板の破れ目より馬が落ち、馬は助けられたが、27間半(約50㍍)にわたって橋板が破損した。」など、暴風雨によって洪水が発生し、大破した橋の様子が生々しく報告されています。
五日間だけの有料橋
完成後から明治12年までの5年間、橋や堤防の修繕費用の工面に世話人は苦労しました。村々に追加の寄付を募りますが、赤字は積もるばかりで、その都度、借入れたり、世話人たちが負担したりしました。
修繕は度重なり、その費用の借入金はかさむいっぽうで、返却の見込みも立たず、困った世話人は、明治10年5月、橋の通行人から補助銭を徴収することを県に願い出、許可をもらいました。
そして、明治10年6月10日から徴収を始めました。しかし、通行人が少なく、補助銭の収入が少なすぎ、これでは修繕費用の見込みもたたない、と同月14日、僅か五日間で徴収を中止しました。その年の明治10年の収支を記録した『新大和橋営繕入費書上書』によると、「道路銭取建札」、「取立候番小屋」、「取繕人足5人の日当」などの支出も多く、結局、この年も赤字でした。
世話人たちは、修繕の都度、県に対し費用の捻出の苦労を訴えていましたが、やっと明治13年から、官費による修繕が実現しました。村人たちは安堵しました。
こんなに苦労して架けた橋ですから、新大和橋は、村や郷土の誇りであり、橋から眺める景色の良さは村の名勝であったそうです。
(2015/12 勝部)

明治31年頃 昭和初期
(参考文献)
『藤井寺市史第九巻資料編七』1978
『柏原市史第三巻』1972
『柏原市史第五巻』1971
『河内の街道物語』1987、柏原市
『八尾、柏原の100年』1995、郷土出版社
3 ふじいでらの村相撲(3)
「藤井寺の力士と今につながる藤井寺の相撲」
1)藤井寺の村相撲力士
藤井寺、道明寺天満宮、誉田八幡宮などの祭礼時に大活躍したと思われますが詳しいことはよくわかりません。そこで戦後に活躍した藤井寺の村相撲の力士を調べてみました。
その結果昭和20年代の二人の村相撲の力士の存在を確認することができました。
【戦後の村相撲力士 男山と井関龍】
船橋出身の男山と古室出身の井関龍はご親族の方から聞き取ることのできた藤井寺の村相撲力士です。
男山は5人抜き勝ち抜き戦で見事勝ち越して祝儀袋がはさまれた御幣棒(墨書の文字有り)を貰いました。他に賞品として布団に使用する布などもあったそうです。
一方井関龍は男山より2年先輩。15歳の少年時代から相撲が大好きで、道明寺天満宮、大井、松原の屯倉神社、瓜破などで相撲を取っていました。やはり、御幣棒を貰っています。この井関龍は元大相撲力士の泉洋(いずみなだ 泉佐野出身)との対戦で見事に勝ったのですが、なんと日本相撲協会から声がかかりスカウトされたのは負けた泉洋だったというエピソードの持ち主です。
二人の共通点は共に小さい時から身体が大きくて強かったこと。同じ学校の先生に相撲を習っていたことです。二人のご家族のかたもお互い相手の村相撲力士のことは記憶があるとのことでした。
二人が活躍したのは昭和25、6年頃になります。おそらく藤井寺の村相撲として最後の力士だったのはないでしょうか。
2)元大相撲力士 花の国
船橋出身の元大相撲力士「花の国」(本名 野口明宏)は小さいころから体も大きく、村相撲の父親(上記の男山)に毎日のように鍛えられていました。中学校を卒業の時に「船橋に強い子がいる」ということで元大関魁傑にスカウトされます。東京に行く時、家族や船橋の村の人たちに「鏡割り」で祝ってもらったそうです。
初土俵は昭和50年(1975年)3月(大坂)場所。辛くて長い下積時代も歯を食いしばって努力した結果、昭和63年(1988年)大阪3月場所で新入幕を果たします。重い腰を生かした典型的な四つ相撲で、右四つから正攻法の攻めで番付をあげ、三役には惜しくも届きませんでしたが、同年9月場所には11勝4敗の好成績で敢闘賞を受賞。また平成元年(1989年)9月場所では横綱北勝海を破り金星をあげるなど大活躍をしました。
しかし、力士生活の晩年は、肘の故障などにより、幕内と十両の往復を繰り返した後、平成6年(1994年)9月場所で引退しました。最上位は前頭筆頭、通算勝敗数605勝593敗でした。その後若者頭として現役名で協会に残り、日々後輩の指導にあたっています。
引退すると廃業したり、他の職種に移る力士が多い中、地道に相撲社会に貢献する「花の国」は正に郷土の誇る大相撲力士です。


手形 道明寺天満宮
3)道明寺天満宮の八朔相撲
毎年9月1日(旧暦8月朔日)に道明寺天満宮で農家の節を祝う八朔祭と合わせて境内の土俵で奉納相撲(八朔相撲)が行われています。菅原道真公や土師氏の祖先で「相撲の祖」と言われる,野見宿祢に由来したものです。
江戸時代より伝承されてきた奉納相撲は、戦後大阪高校相撲道明寺大会と改められました。さらに現在は小学生による子供相撲大会が奉納され、子どもの健やかな成長を願っておこなうことで継承されています。平成21年の八朔祭りでは戦前に使用された大のぼりも初めて披露され、元気な少年たちの歓声と拍手のなか白熱した取り組みがおこなわれました。
近年大相撲でも外国力士が活躍する中、この八朔相撲をとおして国技である相撲に関心を広げ青少年が、逞しく成長していく糧になってほしいものです。

今回で「ふじいでらの村相撲」は終了します。
ご協力いただきました皆様にお礼申し上げます。ありがとうございました。 (芳尾)
参考文献 藤井寺市史(第2巻 通史編平成14年)、「村相撲と河内十三組」松原市民ふるさとぴあプラザ(平成23年10月)、「今に残る村相撲」柏原市教育委員会(平成13年)
ご協力者 道明寺天満宮名誉宮司南坊城充興様、佐々木理様(藤井寺教育委員会)、井関家ご親族(古室)、松井家ご親族(沢田)、野口家ご親族(船橋)、藤井寺市観光ボランティアの会有志
2 ふじいでらの村相撲(2)
「今に残る藤井寺の村相撲のなごり」
1)お墓に見られるなごり
藤井寺市内の墓地に村相撲で活躍した力士と思われるお墓が残っています。「藤井寺市史」(平成14年1月)によると文化年間から昭和20年代(1810~1950)に及ぶお墓が22基現存しているとのことです。
また、所在が不明な墓石や失われたものを考えるとかなりの力士のお墓があったのではと思われます。「藤井寺の河内十三組」を調べるにあたって、市内の力士のお墓を探してみました。
力士のお墓は、多くの場合基礎部に「門弟中」と書かれています。「門弟中」とは弟子仲間・同じ相撲部屋の仲間と言う意味です。「門弟中」を頼りに主な墓地(沢田、小山、大井、藤井寺等)を調べたところ、12基のお墓が確認できました。






資料に載っていた力士のお墓がかなり壊されたりして少なくなっていました。大相撲の力士になったと言われている比較的新しい谷風(小山墓地)や河内地方で最古と言われる墓石の基礎上面四方に俵が丸彫りされているという「俗名井筒平八」(藤井寺共同墓地)の墓は確認できなかったのが心残りです。子孫の方が引っこしなどで所在不明だったりしてお墓の世話をする人がいないということ、また聞き取りをするなかで、地域の長老も数少なくなり、ますます昔のことが解らない世代になっているということを実感しました。
現在相撲取りのお墓が少なくなっているのは残念ですが、墓地のなかでは堂々たる風格で存在感を示しているのは確かなことです。このような立派な力士の墓が残っている背景には、葛井寺や道明寺天満宮で行われていた勧進相撲の伝統から当時の力士の社会的な地位・階級が確立され多くの弟子を持つ者がいたことを物語っています。
2)小山産土神社に残るなごり
【番付表】
小山産土神社の拝殿の天井に奉納された番付表が掲げてある。

天井の番付札 頭取、大関・関脇・前頭・行司がはっきりと読み取ることができる
【奉納絵馬】文政3年(1830)


3)松井家の記録に残るなごり
明治初期の沢田村の頭取であった若緑平吉のいた松井家には力士の記録が残されている。
① ② ③

①明治4年(1871年)と明治7年(1874年)の「頭取中」の記録の表紙
「頭取中」とは頭取の配下力士の等級を書き記したもの
②東方(東野)、西方(西野)の頭取名
③若緑内(沢田村)、今靭内(大井村)の力士名と等級、最上位は等級は記されていないが、それ以外のものは六十目、五十目、四十目・・・の印が力士名の上に押されている
(若緑平吉頭取の曾孫に当たる松井清信様(沢田)にご協力いただきました。ありがとうございました)
(芳尾)
1 ふじいでらの村相撲
「村相撲と河内十三組」
河内では明治から昭和の中頃まで村相撲が盛んに行われていました。河内の村相撲の特色として、各村々に素人仲間の相撲部屋があり、地域ごとに相撲組合を組織していたということです。
藤井寺市は松原市・柏原市・八尾市・羽曳野市・・・などの大和川流域を中心とした相撲部屋で組織された「河内十三組」という相撲組合に属していました。
「河内十三組」は頭取(親方・現年寄り)・所属力士・世話人・取り組みを決める若者頭で構成され、給金も支払われ、給金帳には力士の階級(給金)が記されていました。給金定めの相撲になったのが、道明寺天満宮の八朔相撲といわれています。
河内十三組の興行
3月25日 羽曳野能まつり、8月25日 河内長野観心寺相撲、9月1日 道明寺天満宮の八朔相撲、10月2日 酒屋神社相撲(松原)等各地の秋祭。その他、親方の引退相撲など年間数十回行われていました。
興行の様子
土俵の四隅に柱があり、東西南北の四面に「河内十三組」の天幕が垂れさがり、数百人分の桟敷が設けられました。とりくみは「わり」と言われ、1対1の試合が行われる5人抜きの勝ち抜き戦でした。勝者には新築の棟に上げられる御幣棒が授与されました。
毎回,見物客を多く集めて興行し、庶民の娯楽として人気がありました。昭和の初期頃までは盛んに行われていましたが、時代の流れによって若者の相撲に対する興味が薄れ、その後、昭和58年の瓜破の相撲が最後となり自然消滅してしまいました。
河内名所図会(享和元年 1801年)枚岡神社での村相撲

・出番待ちの力士や廻しを締める力士
・境内に作られた土俵で取り組みをしている様子
・老若男女、様々な人達が相撲を見物している様子
・女性は相撲すら見ることが許されなかったと言われていたが、この絵には女性の姿も描かれている
河内の村相撲は「見る」だけではなく、「取る」時代であり、庶民にとっては今日よりもっと身近なものとして存在していたようです。娯楽の少なかった当時の人達の楽しみの一つだったのでしょう。(芳尾)
(参考 「今に残る村相撲」―河内十三組資料集―、平成23年10月、柏原市教育委員会; 「第23回特別展 村相撲と河内十三組」、平成23年10月、(財)松原市文化情報振興事業団)