ふじいでら歴史探訪
5 大和川にかかる橋 その3 遊園地へ誘う吊橋「玉手橋」

日本最多径間の吊橋

石川をはさんで、藤井寺市道明寺と柏原市石川町・玉手町を結ぶ「玉手橋」は、幅3.3m、長さ151mの多径間吊橋で、日本最多の5径間吊橋として、昭和3年(1928)、大阪鉄道によって架橋されました。昭和初期の形態をほぼ残しており、地域の社会経済的な背景を写す近代の構造物として価値があることから、平成13年(2001)に吊橋としては全国初の登録有形文化財になりました。
 架橋以来、歴代の鉄道会社によって管理されてきましたが、昭和28年(1953)に柏原市へ引き継がれ、今日に至っています。部分的に損傷もみられ、必要に応じて補修されていますが、最近では昭和59年(1984)にケーブルの補強工事、平成10年(1998)には塗装工事が行われました。
 この吊橋は、明治41年(1908)開園の玉手山遊園地への玄関口にもあたり、親しまれてきましたが、その遊園地も平成10年(1998)に廃園となりました。現在では、玉手山丘陵付近には、住宅が広がり、工業団地も立地し、通勤、通学、買い物などで地元の人に利用されています。

増水のたびに流された仮橋

 明治41年8月(1908)、柏原~長野間に蒸気機関車を走らせていた河南鉄道が、「一般公衆遊客ノ清遊ニ供ス」として、玉手山丘陵に玉手山遊園地を開園しました。東京浅草の「はなやしき」に次いで日本で2番目に古い遊園地だと言われました。当時、道明寺方面から遊園地に行く人は、石川に架かっていた板の仮橋を渡っていましたが、この仮橋は、石川が増水するたびに流出しましたので、下流約150mのところの石川橋を渡り、石川・玉手の村をとおり、遠く迂回して遊園地に行かざるをえませんでした。いずれにしても大変不便でしたので、河南鉄道から社名変更した大阪鉄道が、開園から20年後の昭和3年に最新式の吊橋を架け、「玉手橋」と名付けました。 鉄道会社が列車の通る鉄橋ではなく、歩道橋を架橋したのですから驚きますが、この年には、道明寺~長野間の複線化が完成し、藤井寺球場も竣工しており、鉄道各会社の誘客による多角経営の拡張が背景にあったようです。
参考資料3)
景観に配慮した吊橋
 吊橋を支える4つの塔は、橋板をはさんで上下に円弧アーチを配し、塔と塔を結ぶ5組の主ロープの放物線も美しく、とてもお洒落な吊橋です。架橋当時は周りの丘陵や古墳などの景観と一体となっていて、橋を渡って遊園地に向かう人たちの気持ちは高ぶったに違いありません。 主ケーブルを固定させる大きなコンクリートブロックの親柱は、石川側と道明寺側の両岸にはめ込むように固定され、その道明寺側の親柱の根元に花崗岩製の嵌め石があります。今は、半分くらい埋まっており、刻まれた文字はほとんど判読できませんが、そこには、右から「技師樋口辰太郎 設計主任宮本治嗣 工事監督浅野順一 竹内徳市 工事請負松安善吉」と架橋工事に関わった技術者の名前が刻まれています。モデルとなった橋梁は明らかではありませんが、昭和初期に、景観に配慮し、お洒落な橋を架けた技術者たちの気持ちが伝わってくるようです。
この塔の下に嵌め石のある親柱がある
眺望よい山頂
 玉手橋架橋のきっかけとなった玉手山遊園地は、大鐡全史によると「山頂を国見ケ丘と呼び、見晴しよく、ここに立てば西北の煤煙にけむる大阪市、晴天には淡路島も望まれた。石川が銀蛇の尾をひき、河内の沃野は一望できる。春には紫つつじの色あざやかに、土筆つみも面白く、秋には松茸狩りに興趣が深い。運動用具、無料休憩所を設備し、一家揃っての散策に好適な施設である」と当時の様子を振り返っています。 また、その頃の園内の様子を伝えた朝日新聞には「・・近頃追々繁盛し、料理店の河芳亭を始め数軒の茶店できたれば飲食するには便利よし国見(くいみ)が丘の名に背かず、大和川の築留を右に控えて眺望すぐれたり・・」(明治41年4月5日)との記事があり、飲食店もあったことがわかります。大阪の湊町(現在のJR難波駅)発長野行列車は平日1時間ごとに運転され、湊町より道明寺往復26銭でした。玉手橋付近は、大坂夏の陣道明寺合戦の戦場ともなった場所です。NHK「真田丸」ブームもあり、最近では戦跡を巡る人たちが渡っていることも少なくありません。 (勝部 2016/12)
参考資料 5)
参考資料
1)『文化財基礎調査概報―近代遺産』柏原市教育委員会、2003
2)『大鐡全史』近畿日本鉄道㈱、1952
3)石田成年「近鉄南大阪線の歴史をたどって」『近畿文化671号』近畿文化会事務局 2005
4)石田成年「近鉄南大阪線の歴史をたどって」『近畿文化782号』近畿文化会事務局 2015
5)西條一雄「70周年を迎えた玉手山遊園地」『ひかり盛夏号』近畿日本鉄道㈱社内誌 1978
*今回でシリーズ「大和川にかかる橋」を終了します。


5 大和川にかかる橋 その2 村の中に架けられた「農通橋」

図1 農通橋(河内国志紀郡大井村絵図)安政3年(1856年) 資料2:第十巻


図2 「農通橋」想定地


 国道170号線新大井橋の上流約400mのところに、昭和の初めごろまで、藤井寺市大井と川北を結ぶ橋がありました。
 今から約310年前の宝永元年(1704)に付替えられた大和川によって志紀郡大井村(現藤井寺市大井)は、南の集落と北の耕作地に二分され、耕作地へ行くためには大変な不便と困難が生じました。村の中を自由に行き来できる橋を架けることは人々の悲願でした。

(1) 徒歩で川を渡る「徒歩渡」

 付替え後、人が川を渡るのは、徒歩又は舟でした。中・東高野街道など主要な街道筋には、舟着場や舟乗場の舟渡場が整備され、舟賃を払って舟で川を渡っていました。そのほかは、徒歩で川を渡っていました。大和川は幅が200m近くもある大川ですから、大雨による洪水や寒中の時などは、土地の人でも立ちすくんでしまいます。村人たちは、どんなふうに渡っていたのでしょうか。
 天保末年(1840年頃)頃に作成されたと伝わる「旧大和川跡略図」(図3参照)によると、大井村の北に「幅百間(約180m)の歩行渡」がありました。人足が板の上に人や荷物を載せて渡る渡し場があったのでしょうか、それとも、中洲の川底の浅いところを選んで渡るルートのことだったのでしょうか。残念ながら、渡る様子の記録は残されていません。

図3 歩行渡(舊大和川跡略圖 天保末年)(資料1)

(2) 下流の村に「野通橋」

 付替えから数十年経った頃、下流の丹比郡(現松原市付近)の村では、大和川を渡って耕作地に行くための「野通橋」(注1)が架けられました。橋といっても、あまり丈夫なものではなく、洪水の際には流されるような簡易なものだったようです。
 明和7年(1770)頃の大和川の状況を描いた「大和川筋図巻」によると、丹比郡の3ヶ所に「野通橋」が架けられていたことが確認できます。しかし、大井村には、まだ、この時期、橋はかけられていなかったようです。

(3) 大井村にも「農通橋」
 その後、年代は不明ですが、大井村にも「農道板橋」が架けられ、「農通橋」と呼ばれました。天保14年(1843)、大井村から藩役所に提出した「河内国志紀郡大井村明細帳」には、大井村に「農道板橋」壱カ所が架けられていたとの記録があります。 橋の長さは「川幅と同じ102間半(約185m)」。修復料として「銀500匁(注2 約50万円超)が公儀より与えられ、必要な根杭材や人足賃も支給された」と記録されています。安政3年(1856)作成の「大井村絵図」(図1参照)には、現在の大井3丁目誓願寺の北と川北3丁目の南を結ぶ「農通橋」が描かれています。ずいぶん立派な橋にみえます。

嵩む修復費用
 村人の悲願かなって架けられた橋でしたが、大雨のたびに橋が浮き、渡ることさえもできない状況がたびたびあったそうです。
 幕末の慶応年間になると、橋の維持経費が毎年多額にのぼり、護岸のために柳2万本を挿す人足、堤修復費用など「大和川のおかげで多額の物入りが嵩んできている」と村役人が嘆かざるを得ない状況でした。そのうえ、大井村は、何回となく大和川決壊による家屋、農作物の被害をうけましたので、村人の困窮は悲惨の極に達していたそうです。

木橋に架け替え
 明治になると、各地の橋は歩くための道路から荷車、荷馬車で荷物を運ぶための道路に整備され、この「農通橋」もしっかりとした木橋(図4参照)につけかえられました。地元では「大井橋」と呼ばれていたようですが、命名に関する資料は見当たりません。
 この橋は、明治9年「大井村橋梁樋管堤防明細表」によると、「長さ百間、幅4尺(約1.30m)、高さ1間半(約2.7m)」ありました。しかし、この時代は「皆民費ヲ架之」、即ち、費用は全額地元負担でした。

図4 農通橋(明治41年測量図)(資料2:第10巻)

(4) 「大井橋」から「新大井橋」へ

 昭和になると、車時代に対応した橋の整備が全国で進み、この「橋」は、昭和11年(1936)、下流約400mのところ(現水道管施設)に、2車線のコンクリート製の「大井橋」(注3)として新たに架けられました。
 さらに、上流約600メートルのところに昭和13年(1938)に「河内橋」が架けられ、河内の南北を結ぶ交通網が整えられました。 昭和45年(1970)、大阪万国博覧会にあわせて国道170号線の整備が行われた時に「大井橋」のすぐ東隣に四車線の現在の「新大井橋」が架けられました。 河内の南北を結ぶ主要幹線道路になっている「新大井橋」のルーツは、村民が苦労して維持し、守ってきた「農通橋」だったのです。                   (1016/8 勝部)

図5 左:新大井橋、右:旧大井橋、現在水道管


(注1)「野通橋」は「やどおりばし」、「農通」は「のうどおりばし」。資料にはふり仮名が無いので正確な呼び名はわかりませんが、他の地域の地名例などから推測しました。

(注2)「16万円」として換算。日本銀行HP「貨幣博物館」によると「江戸中期~後期は、1両は4~6万円」。江戸時代は貨幣価値の変動が激しく、時代によって換算率が難しく、諸説有るそうです。

(注3)大井橋の橋脚は、今でも4本の水道管を支える脚として再利用されています。当時の大井橋の規模がわかります。

(参考資料)

資料1 大阪府誌第四編(1970

資料2 「藤井寺市史」

   第二巻通史編二(2002

  第六巻資料編四中(1988

  第十巻資料編八上(1991

資料3 「柏原市史」第三巻(1972

資料4 堺市博物館編「大和川筋図巻をよむ」堺市博物館(2015)

資料5 中九兵衛「甚兵衛と大和川」(2004)

資料6 天野寿男他編「大和川付替えと流域環境の変遷」㈱古今書院(2008


4 大和川にかかる橋 その1新大和橋

 新大和橋は、藤井寺市舟橋町と柏原市上市にまたがって、明治7年に架けられました。大和川付け替えから170年後のことです。現在は、全長204㍍、幅員2㍍の大阪府道802号八尾河内長野自転車道線自転車・歩行者専用道路で、大阪府富田林管理事務所が管理をしています。 架橋当時からほとんど同じ大きさで、位置も変わることなく、人道として今日まで継続している橋は多くありません。地元の人たちが大変な苦労をして橋を架け、郷土の誇りとして大切にしてきたからではないでしょうか。 苦労して架けられた様子は、柏原市史第三巻に詳しく当時の架橋に係わる資料が第五巻に多く収録されています。

架橋の願い
 船橋辺りには、河内国府があったとされ、東高野街道、奈良街道、長尾街道が交差し、古くから交通の要衝でした。しかし、これらの街道は、いずれも大和川と石川に遮られ、洪水になると船留になり、急用のある人は大変困っていました。明治になると、人や物の流れが活発になり、付近の村人たちのみならず大和・河内・摂津の広範囲の村々からも橋を架ける願いが起こりました。しかし、明治の初め頃は、道路や橋の整備費は原則として地元各村の負担でしたので、この辺りの貧乏な村々では到底自力での実現は不可能でした。それで、そのままになっていたのです。
地元負担で掛けられた橋
 明治6年5月、堺県は、通行難渋の場所には早く架橋するよう布達しました。上流の柏原村に国豊橋も架けられ、河内周辺の県道整備も進んできたので、明治6年11月、柏原村、舟橋村、国府村、弓削村、市村新田、田井中村、道明寺村の各戸長が発起人となり、県に『架橋御願書』を提出し、大和川に橋を架ける工事を行うことになりました。架橋費用は全て「他力勧進」、即ち地元負担で賄わなければなりません。発起人は、架橋の許可がおりると直ちに、『新架橋勧進帳』に橋の完成絵図を添付して、各村に寄付を募りました。
(柏原市史)
大和橋の架橋を利用
 寄付金が集まっても新木材を買い入れての新築の架橋は困難でしたので、その資金調達に苦慮していました。その頃、下流の堺の大和川に架かっている大和橋は、腐朽がおびただしくなったため、仮橋を作って付替え工事を行っているところでした。完成すれば工事中に使用した仮橋はいらなくなることを知り、堺県に『御願書』を願い出、仮橋の払い下げを嘆願しました。ところが、すでに落札済みでしたので落札人に手数料を上乗せして、ようやく払い下げを受けることができました。 この仮橋の腐朽部分を取り除き、不足木材を補い、堺の業者が新橋建設工事を請負うことになりました。
新大和橋完成
 こうして、明治7年1月末着工、一ヶ月後の2月末に完成。長さ108間(196.4m)、幅一間半(2,7m)、高さ2間半(4.5m)、両手摺付で、県より新大和橋と命名されました。この名前は堺の大和橋との関連が意識されているといわれています。 工事費総額は、約823円。そのうち約9割は寄付金で集まりましたが、残りの1割は、県からの寄付と世話人が追加の寄付をして、なんとか決済をしました。
かさむ維持・修復費用
 完成後の新大和橋は、架橋工事にも増して、その維持のために苦労しました。新しい橋が架かってから2カ月も経たないうちに、牛車や荷車が重荷を積んで通行するため、橋板には穴があき、手摺が壊れるなど損傷が著しくなりました。明治10年、県へ届けた『橋梁修繕願』には、「渡船が流され橋枕にひっかかり、橋梁が6間(11㍍)にわたって流された。また、ある時は、橋板の破れ目より馬が落ち、馬は助けられたが、27間半(約50㍍)にわたって橋板が破損した。」など、暴風雨によって洪水が発生し、大破した橋の様子が生々しく報告されています。
五日間だけの有料橋
 完成後から明治12年までの5年間、橋や堤防の修繕費用の工面に世話人は苦労しました。村々に追加の寄付を募りますが、赤字は積もるばかりで、その都度、借入れたり、世話人たちが負担したりしました。 修繕は度重なり、その費用の借入金はかさむいっぽうで、返却の見込みも立たず、困った世話人は、明治10年5月、橋の通行人から補助銭を徴収することを県に願い出、許可をもらいました。 そして、明治10年6月10日から徴収を始めました。しかし、通行人が少なく、補助銭の収入が少なすぎ、これでは修繕費用の見込みもたたない、と同月14日、僅か五日間で徴収を中止しました。その年の明治10年の収支を記録した『新大和橋営繕入費書上書』によると、「道路銭取建札」、「取立候番小屋」、「取繕人足5人の日当」などの支出も多く、結局、この年も赤字でした。 世話人たちは、修繕の都度、県に対し費用の捻出の苦労を訴えていましたが、やっと明治13年から、官費による修繕が実現しました。村人たちは安堵しました。 こんなに苦労して架けた橋ですから、新大和橋は、村や郷土の誇りであり、橋から眺める景色の良さは村の名勝であったそうです。
                (2015/12 勝部)


明治31年頃          昭和初期
 (参考文献)
  『藤井寺市史第九巻資料編七』1978
  『柏原市史第三巻』1972
  『柏原市史第五巻』1971
  『河内の街道物語』1987、柏原市
  『八尾、柏原の100年』1995、郷土出版社


3 ふじいでらの村相撲(3)
「藤井寺の力士と今につながる藤井寺の相撲」

1)藤井寺の村相撲力士

 藤井寺、道明寺天満宮、誉田八幡宮などの祭礼時に大活躍したと思われますが詳しいことはよくわかりません。そこで戦後に活躍した藤井寺の村相撲の力士を調べてみました。
その結果昭和20年代の二人の村相撲の力士の存在を確認することができました。

【戦後の村相撲力士 男山と井関龍】
 船橋出身の男山と古室出身の井関龍はご親族の方から聞き取ることのできた藤井寺の村相撲力士です。
男山は5人抜き勝ち抜き戦で見事勝ち越して祝儀袋がはさまれた御幣棒(墨書の文字有り)を貰いました。他に賞品として布団に使用する布などもあったそうです。
 一方井関龍は男山より2年先輩。15歳の少年時代から相撲が大好きで、道明寺天満宮、大井、松原の屯倉神社、瓜破などで相撲を取っていました。やはり、御幣棒を貰っています。この井関龍は元大相撲力士の泉洋(いずみなだ 泉佐野出身)との対戦で見事に勝ったのですが、なんと日本相撲協会から声がかかりスカウトされたのは負けた泉洋だったというエピソードの持ち主です。
 二人の共通点は共に小さい時から身体が大きくて強かったこと。同じ学校の先生に相撲を習っていたことです。二人のご家族のかたもお互い相手の村相撲力士のことは記憶があるとのことでした。
 二人が活躍したのは昭和25、6年頃になります。おそらく藤井寺の村相撲として最後の力士だったのはないでしょうか。

2)元大相撲力士 花の国
 船橋出身の元大相撲力士「花の国」(本名 野口明宏)は小さいころから体も大きく、村相撲の父親(上記の男山)に毎日のように鍛えられていました。中学校を卒業の時に「船橋に強い子がいる」ということで元大関魁傑にスカウトされます。東京に行く時、家族や船橋の村の人たちに「鏡割り」で祝ってもらったそうです。
 初土俵は昭和50年(1975年)3月(大坂)場所。辛くて長い下積時代も歯を食いしばって努力した結果、昭和63年(1988年)大阪3月場所で新入幕を果たします。重い腰を生かした典型的な四つ相撲で、右四つから正攻法の攻めで番付をあげ、三役には惜しくも届きませんでしたが、同年9月場所には11勝4敗の好成績で敢闘賞を受賞。また平成元年(1989年)9月場所では横綱北勝海を破り金星をあげるな
ど大活躍をしました。
 しかし、力士生活の晩年は、肘の故障などにより、幕内と十両の往復を繰り返した後、平成6年(1994年)9月場所で引退しました。最上位は前頭筆頭、通算勝敗数605勝593敗でした。その後若者頭として現役名で協会に残り、日々後輩の指導にあたっています。
 引退すると廃業したり、他の職種に移る力士が多い中、地道に相撲社会に貢献する「花の国」は正に郷土の誇る大相撲力士です。


手形 道明寺天満宮
3)道明寺天満宮の八朔相撲
 毎年9月1日(旧暦8月朔日)に道明寺天満宮で農家の節を祝う八朔祭と合わせて境内の土俵で奉納相撲(八朔相撲)が行われています。菅原道真公や土師氏の祖先で「相撲の祖」と言われる,野見宿祢に由来したものです。
 江戸時代より伝承されてきた奉納相撲は、戦後大阪高校相撲道明寺大会と改められました。さらに現在は小学生による子供相撲大会が奉納され、子どもの健やかな成長を願っておこなうことで継承されています。平成21年の八朔祭りでは戦前に使用された大のぼりも初めて披露され、元気な少年たちの歓声と拍手のなか白熱した取り組みがおこなわれました。
 近年大相撲でも外国力士が活躍する中、この八朔相撲をとおして国技である相撲に関心を広げ青少年が、逞しく成長していく糧になってほしいものです。


今回で「ふじいでらの村相撲」は終了します。
ご協力いただきました皆様にお礼申し上げます。ありがとうございました。                (芳尾)
参考文献 藤井寺市史(第2巻 通史編平成14年)、「村相撲と河内十三組」松原市民ふるさとぴあプラザ(平成23年10月)、「今に残る村相撲」柏原市教育委員会(平成13年) 
ご協力者 道明寺天満宮名誉宮司南坊城充興様、佐々木理様(藤井寺教育委員会)、井関家ご親族(古室)、松井家ご親族(沢田)、野口家ご親族(船橋)、藤井寺市観光ボランティアの会有志


2 ふじいでらの村相撲(2)
 「今に残る藤井寺の村相撲のなごり」

1)お墓に見られるなごり
 藤井寺市内の墓地に村相撲で活躍した力士と思われるお墓が残っています。「藤井寺市史」(平成14年1月)によると文化年間から昭和20年代(1810~1950)に及ぶお墓が22基現存しているとのことです。  また、所在が不明な墓石や失われたものを考えるとかなりの力士のお墓があったのではと思われます。「藤井寺の河内十三組」を調べるにあたって、市内の力士のお墓を探してみました。
 力士のお墓は、多くの場合基礎部に「門弟中」と書かれています。「門弟中」とは弟子仲間・同じ相撲部屋の仲間と言う意味です。「門弟中」を頼りに主な墓地(沢田、小山、大井、藤井寺等)を調べたところ、12基のお墓が確認できました



 資料に載っていた力士のお墓がかなり壊されたりして少なくなっていました。大相撲の力士になったと言われている比較的新しい谷風(小山墓地)や河内地方で最古と言われる墓石の基礎上面四方に俵が丸彫りされているという「俗名井筒平八」(藤井寺共同墓地)の墓は確認できなかったのが心残りです。子孫の方が引っこしなどで所在不明だったりしてお墓の世話をする人がいないということ、また聞き取りをするなかで、地域の長老も数少なくなり、ますます昔のことが解らない世代になっているということを実感しました。
 現在相撲取りのお墓が少なくなっているのは残念ですが、墓地のなかでは堂々たる風格で存在感を示しているのは確かなことです。このような立派な力士の墓が残っている背景には、葛井寺や道明寺天満宮で行われていた勧進相撲の伝統から当時の力士の社会的な地位・階級が確立され多くの弟子を持つ者がいたことを物語っています。

2)小山産土神社に残るなごり
【番付表】
小山産土神社の拝殿の天井に奉納された番付表が掲げてある。
 
天井の番付札    頭取、大関・関脇・前頭・行司がはっきりと読み取ることができる
【奉納絵馬】文政3年(1830)

3)松井家の記録に残るなごり
明治初期の沢田村の頭取であった若緑平吉のいた松井家には力士の記録が残されている。
①        ②          ③

①明治4年(1871年)と明治7年(1874年)の「頭取中」の記録の表紙
「頭取中」とは頭取の配下力士の等級を書き記したもの
②東方(東野)、西方(西野)の頭取名
③若緑内(沢田村)、今靭内(大井村)の力士名と等級、最上位は等級は記されていないが、それ以外のものは六十目、五十目、四十目・・・の印が力士名の上に押されている

(若緑平吉頭取の曾孫に当たる松井清信様(沢田)にご協力いただきました。ありがとうございました)

(芳尾)

1 ふじいでらの村相撲
 「村相撲と河内十三組」

 
 河内では明治から昭和の中頃まで村相撲が盛んに行われていました。河内の村相撲の特色として、各村々に素人仲間の相撲部屋があり、地域ごとに相撲組合を組織していたということです。
 藤井寺市は松原市・柏原市・八尾市・羽曳野市・・・などの大和川流域を中心とした相撲部屋で組織された「河内十三組」という相撲組合に属していました。
 「河内十三組」は頭取(親方・現年寄り)・所属力士・世話人・取り組みを決める若者頭で構成され、給金も支払われ、給金帳には力士の階級(給金)が記されていました。給金定めの相撲になったのが、道明寺天満宮の八朔相撲といわれています。

河内十三組の興行
 3月25日 羽曳野能まつり、8月25日 河内長野観心寺相撲、9月1日 道明寺天満宮の八朔相撲、10月2日 酒屋神社相撲(松原)等各地の秋祭。その他、親方の引退相撲など年間数十回行われていました。




興行の様子
 土俵の四隅に柱があり、東西南北の四面に「河内十三組」の天幕が垂れさがり、数百人分の桟敷が設けられました。とりくみは「わり」と言われ、1対1の試合が行われる5人抜きの勝ち抜き戦でした。勝者には新築の棟に上げられる御幣棒が授与されました。
 毎回,見物客を多く集めて興行し、庶民の娯楽として人気がありました。昭和の初期頃までは盛んに行われていましたが、時代の流れによって若者の相撲に対する興味が薄れ、その後、昭和58年の瓜破の相撲が最後となり自然消滅してしまいました。

河内名所図会(享和元年 1801年)枚岡神社での村相撲
    
・出番待ちの力士や廻しを締める力士
・境内に作られた土俵で取り組みをしている様子
・老若男女、様々な人達が相撲を見物している様子
・女性は相撲すら見ることが許されなかったと言われていたが、この絵には女性の姿も描かれている 
河内の村相撲は「見る」だけではなく、「取る」時代であり、庶民にとっては今日よりもっと身近なものとして存在していたようです。娯楽の少なかった当時の人達の楽しみの一つだったのでしょう。(芳尾)
 (参考 「今に残る村相撲」―河内十三組資料集―、平成23年10月、柏原市教育委員会; 「第23回特別展 村相撲と河内十三組」、平成23年10月、(財)松原市文化情報振興事業団)

ふじいでら歴史
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1 ふじいでらの   村相撲(1)
2 ふじいでらの   村相撲(2)
3 ふじいでらの   村相撲(3)

   
 ふじいでら風物詩
6古刹に咲く花 その二 椿
(1)尼寺の椿 道明寺 
 菅原道真公ゆかりの道明寺。ちりひとつなく掃き清められた箒目の境内が美しい。
 山門の左手奥の本堂裏庭に毎年12月から4月初旬にかけて種々さまざまな椿の花が咲く。 最初に出会うのは金魚葉椿。葉の先が3つに分れ、まるで金魚の尾びれのようである。 子ども達は「わあ~きんぎょや~ きんぎょつばきや~」と呼んでいる。花はごく普通の見慣れたのピンク系の椿である。
  林のような椿の木の間をくぐっていくと 「ここ ここよ 見つけて~」足元からなんだか声が聞こえてくるみたい。下向き加減の小さな可愛いピンクの椿。侘助だ。一重で半開状に咲く様子はまるでおちょぼ口みたい。茶会でよく好まれ、茶花として愛好されている椿。
 上を見上げると大輪の赤い椿が風にゆれている。何て名前だろう?天高く青空にす―と伸びた白い椿。こんな高い木の椿もあったのだ。日本画によく描かれている純白の角倉椿(すみのくらつばき)は優しく清楚な雰囲気が漂う。江戸初期の京都の豪商で能書家の角倉素案が発見者と言われている。
 代々公家出身の女性が住持されている格式高い尼寺の道明寺。綴錦は濃紅地に雲状の白斑の大倫の椿で華やかで気品に満ちている。
 以前からなかなかお目にかかれなかった黒椿。なんと今年はいっぱい花をつけているではないか?思わず目を疑いたくなるほど感激もひとしお。ちょっぴり小粒で濃い臙脂(えんじ)色。つぼみも多くまだまだ楽しめそうだ。
 3月になれば遅咲きの椿が次々と咲き始める。風情ある散り椿は春の訪れを知らせてくれる。
 長年茶道と華道に嗜み精進されているご住職さま(御前さま)がお茶やお花のお稽古をされるお寺としても知られ、裏庭の椿も茶花として尼僧さんたちが植えられるようになったのだろう。
 道明寺の椿は知る人ぞ知る隠れた椿の名所である。これからもそうであってほしい。
 
角倉椿(すみのくらつばき)      黒椿

綴錦            金魚葉椿

(2)椿の参道 辛國神社
 深い緑に囲まれた長い参道を歩くと心が癒されます。
 境内は「大坂緑の百選」にも選ばれ、記念樹として数十種類の「椿」100本が植樹されました。
 1月から3月にかけて緑の木々の間に色とりどりの花を咲かせます。
 ピンクの可愛い「港の曙」。ほんのりと甘い香りが漂い、濃いピンクのぼかし加減がほのぼのとした春の曙を思わせます。弁が重なり合った「乙女椿」はその名の通り恥じらいの女学生。白色の清楚で上品な「角倉椿」。そしてなんといっても緑の杜に映えるのが赤い「侘び助」です。侘び助はヤブツバキ系の椿で古くは万葉時代から和歌に詠まれ、日本のどこにでも見られる親しみのある椿。小さな赤侘び助はまさに緑の古社にぴったり。侘び助に出会うとほっとした気分になります。
  2度目に訪れた時は、何となく懐かしく、咲き誇った椿の花たちがさわさわと・・・「待っていたよ。満開だよ」って迎えてくれたような気がしました。
  社殿北側の裏参道は高い椿の木も多く、まるで椿林のようです。名前はわかりませんが赤や白が混ざった絞り染めのような椿。花びらが八重でフリル状の洋種の椿は胸もとのコサージュに合いそうな感じです。中でも「白唐子」「京唐子」など華やかな大輪の唐子が見事でした。


港の曙               侘助                乙女椿
(3)五色椿 潮音寺

 潮の音が聞こえるお寺。何という美しい名前でしょう。
  平安時代「衣縫孝女(いぬいこうじょ)」という孝行むすめの伝説もぴったりの花の寺。
  1月から3月にかけては山茱萸をはじめ、椿が狭い境内を華やかに彩ります。    白椿、金魚葉椿、そしてなんといっても1本の木から紅や白、そして紅白絞り縞模様の 花が咲く五色椿は出会いの感動すら覚えます。まるで双子のように前後にひっついて咲く 不思議な椿も同じ五色椿なのです。白地に淡紅の縦絞りが五色椿の本来の色だそうです。
  椿の花は一般的に花ごと落ちますが、五色椿は花びらが一枚ずつはらはらと散るように 落ち、別名「散り椿」とも呼ばれています。樹下に花びらがグラデーションのごとく敷き 詰められた様も美しいですね。
 月光(赤)、日光(しろ)という菩薩さまみたいな名前の椿もあるとのことでした。 (高貴寺から苗をいただいたそうです)来年はぜひ見たいです。
                                (2016年11月 芳尾)

                 潮音寺の五色椿
参考資料
(1) 横山三郎・桐野秋豊著「日本の椿花」、1989年1月、淡交社
(2) 桐野秋豊著「色分け花図鑑 椿」、2005年1月、学習研究社
(写真は筆者による撮影)

5古刹に咲く花 その一 春を告げる梅
(1)道明寺天満宮 
○梅園
 立春を過ぎてもまだまだ寒い2月。天満宮の境内はほのかな梅の香につつまれます。
 天満宮の約1万坪の境内に菅原道真公の御神霊をお慰めするために紅白80種800本の梅の木が植樹されています。
 
   紅梅、白梅、ピンクの梅が重なり合って       観梅橋から
   見事なグラデーションを成す

 毎年2月半ばから3月上旬まで恒例の「梅まつり」が開催され、市内、市外から大勢の方が観梅に訪れ楽しまれています。
 梅園の梅は綺麗に剪定され、石の観梅橋から四方にながめられ、紅白やピンクの梅の花がまるで雲海(梅海?)のようです。時には本殿や鳥居がまるで浮かび上がったように見えます。
 なんと美しく、不思議な梅園でしょうか?
 寒さの中、凛として咲く梅の花。豊かな香りと共に、まさに豪華絢爛の梅の花は百花に先だって春の訪れを感じさせてくれます
○句碑
 境内には梅にちなんだ句碑があります。

 早梅の片はなびらの立つるあり 泗水

 青梅や餓鬼大将が肌ぬいで   一茶 (榊獏山書)

 一茶が33歳の時 寛政7年(1795年)西国行脚中に当宮に立ち寄られた時句碑のある場所で詠んだ句だそうです。 なんと300年前から梅林の里だったのですね。
○「常成の梅」の木
1年中実をつけていると言われる梅の木。
菅原道真公が大宰府に下向される時、花の盛りを 見て梅の実が落ちないように祈ったと言われてい ます。
今年も探して探してやっと一つ見つけました。 常成の梅の周りに結ばれたおみくじは真っ白い垣根 みたいですね。

(2)道明寺の枝垂れ梅

境内の奥の庫裏の中庭に2本の枝垂れ梅。
 ちょっと近寄りにくいかな・・・・
 でもちょっと覗いて見たいな・・・
 手前が紅梅、奥が白梅の枝垂れ梅。
 白梅はまるででっかいアンブレラ。
 紅梅は枝の枝垂れ具合がなんとしなやか。
雰囲気は異なりますが気品よく咲き誇っています。

 
(3)その昔は・・梅の名所 黒田神社
北条にある藤井寺の古社。知る人ぞ知る。
ひっそりとした雰囲気が漂う神社である。その昔、梅の名所であったという。
広い境内にはたくさんの梅の木があったそうな。
文人である三田承久の「河内鑑名所記」(1679)に記載されている。
  ・神の梅北条九代のつき木哉 西鶴
  ・梅の絵は四季天神の詠かな 承久
  ・北条の時正しきや梅の花  重良
 本殿の千木を背景に名残の梅の花がさいていた。
 河内鑑名所記(注)
(注)出典:三田章編「上方藝文叢刊3 河内鑑名所記」昭和55年、上方藝文刊刊行会
                                    (2016年6月 芳尾)

4舟橋村の早咲き水仙をたずねて そのニ

 江戸時代の舟橋村の庄屋松永家に水仙花に係る古文書があると聞き早速お訪ねしました。文書は欠年ですが十一月六日付の公卿持明院家より松永織部宛ての御礼状です。(持明院家は藤原氏北家中御門家の庶流)
 
(井元良洋編、「松永家文書 松永織部の子孫 店・松永家」、平成22年5月、
松永白洲記念館松永明発行) 


 松永織部は天保年間に持明院家の家来として仕え、旅宿中(殿様の御用の無い時)は医業を究めるとともに剣術士として多くの門弟に囲まれていました。織部以後、娘・孫・曾孫と四代が医業として持明院家に仕えていて、伺候時に使用された家紋入漆仕立ての駕籠が保管されています。
 水仙花を届けたのは御礼状から推し量ると今の十二月初め頃、花の少ない時季の邸に芳香が漂ったことでしょう。
 織部はどのようにして運んだのかな、駕籠の後ろにお供が花を詰めた桶か、薦巻きにした束を担いでいく姿を想像しました。
 船橋地区の墓地に織部の墓があると聞きお参りさせていただきました。高い墓石に「松永先生の墓」と太く深く刻まれた字に織部の人と形を浮べています。ふと後の空き地を見ると一かたまりの水仙が咲いていました。
 現在、船橋地区の方達が公園や空地に球根を植えてかつての水仙郷を復活させようと尽力されています。
 私がお訪ねした松永家は11年前から松永白洲記念館として、書道家白洲(織部の裔の薫氏、日展作家)の遺品の書や道具が展示されています。水仙を描いた書画、文中の駕籠も拝見できます。開館日は土・日・月曜日の10時~16時、無料です。連絡先 090-4306-6109館主松永明。

古野英子画(松永白洲記念館)

(あとがき)
 ここ数年、秋にはいると船橋地区を訪ねて早咲き水仙を探し歩くのですが、会えないままです。水仙の群生地として越前海岸(福井県)、淡路島の黒岩、伊豆爪木崎などが知られていますが、咲き始めるのが11月中旬くらいだそうです。植物学の先生に早咲き水仙のことをお訊ねしますと、江戸時代に正月用の花材として清楚で香り高い水仙が好まれ、その時期に合わせる栽培方法がなされたと思われるが、図会記載のように八・九月にしかも野辺に咲くとは考えられないとのお返事でした。
                             (2015年2月 近藤)

3舟橋村の早咲き水仙をたずねて その一
 かつて、藤井寺市に水仙郷がありました。場所は江戸時代の舟橋村で『水仙屋』という旅籠屋もありました。
 延宝7年(1679)刊行の「河内鑑名所記」(三田浄久著)の巻四に
  舟橋村 水仙花の早咲の名所
    舟橋や世に云ひわたる水仙花   保友
    舟橋や一かゝりあるすいせん花   正元
 と詠まれています。
 また、享和元年(1801)刊行の「河内名所図会」(秋里籬島著)巻之四に
「名産水仙花 舟橋村に多し 玉玲壠 金盞 銀䑓 等の名あり 水仙花は霜雪をうけて開く 此地は他境にすぐれて早し 八・九月の頃開花はじむる色麗しく高貴へ献る 中華(もろこし)には名花多くありて花形大なり 金盞のごとしと山谷(中国の詩人)が詩にも見えたり」
と記述され、見開きに大和川 築留の絵が載せられています。
 中央の大和川は奈良県北部の諸河川と合流し大阪府柏原市に流れ、そこで葛城山系源流の石川と合流し大河となって大阪府の堺市を経て大阪湾に注いでいます。元禄年間以前は柏原市より北上し淀川に合流していました。しかし、天井川であったため氾濫が多発。

 宝永元年(1704)幕府によって川筋が変えられ、その付け替え付近が築留です。
 滔滔と流れる大和川には剣先船(貨物運送舟)や渡し舟が航行し、手前の陸に菅原道真公ゆかりの道明寺、そして舟橋村の水仙名所の名が囲み文字で表されています。
 河内名所図会は江戸時代の旅の手引書、興味深く読むなかで気になる箇所が二つありました。一つ目は「八・九月の頃に開花・・」は今の九・十月、早咲きの水仙といってもそんな早くに? と、「色麗しく高貴へ献る」の高貴なお方とは何方なの? です。
 舟橋村はいま、藤井寺市船橋町です。大和川には橋、鉄橋が架かり川沿いにバイパスが通り往時とは様変わりしています。でも、水仙は球根花なので名残があるかと九月に入って船橋地区周辺を歩きましたが葉の芽も見つかりません。十月過ぎにやっと葉が伸び始めていました。この分だと開花は十二月過ぎと思い、出かけるとぼつぼつと咲いていました。思わず近寄り花を見つめました。香は高いのですが普通に見かける房咲き水仙の様で辺りの花も同じです。
 年を変えて歩きましたが図会に記された早咲き水仙には会えないままです。当時と温暖化の現代との変化なのでしょうか。私にとって船橋の早咲き水仙は幻の花になりつつあります。
  引用文献 ・堀口泰生編「河内名所図会」(1975)
                    (2014年12月 近藤)


2 沢田ぶどう
 中・南河内の山ろくはぶどうの栽培が盛んで、大阪府の大半を出荷しています。平成21年のデータでは全国7位の5,930トンの出荷量ですが、昭和50年代は全国有数の出荷を誇っていたそうです。
 江戸時代後期、南河内一帯の民家では日除け用のぶどうが植えられていたようで、「紫ぶどう」と呼ばれ地域の産物として出回ったそうです。
 古くは秀吉の朝鮮出兵の時に持ちこまれたとする説もあるが品種は確認できていないようです。「紫ぶどう」は甘みがあり、江戸時代は大坂に運ばれ重用されたそうで、天保の記録では幕府に献上されたことが残されています。明治初年には料亭や旅館で「沢田ぶとう」として高級果物の扱いとなり、山梨についで、わが国第二のぶどう産地だったそうです。


 そんな紫ぶどうの中心である沢田に、明治9年(1876)に果樹栽培を振興するために、大阪府によってぶどう試験園が設けられ、ぶどう苗の配布が始まりました。これが沢田一帯で栽培が盛んになるとともに、現在の柏原市などのぶどう栽培の始まりともなったということです。この品種は「甲州ぶどう」で、柏原では「本ぶどう」と呼ばれ、完熟果は高級和菓子に勝る上品な味だそうです。
 明治20年代、藤井寺市域は、府下第一の生産地になり、その後のデラウエア種なども加わり第二次大戦後しばらくまで有数の出荷がありましたが、今はほとんど栽培されていません。
柏原市の「本ぶどう」は昭和10年代、府下最大の出荷がありましたが、新種のぶどうに転換し、「本ぶどう」を作る農家が少なくなっています。しかし、希少な種類の甲州ブドウを好むひともあって、若干の出荷があるようです。
 柏原市堅下のぶどう園の間に、散策道が整備され、その上にぶどう棚が張り出し、季節になると甲州ぶどうのたわわに実る風景を楽しむことができます。


(このレポートは、2010年に当ホームページに掲載されたものを再編集したものです 鈴木)
参考資料
l 「藤井寺市史 通史編三(近現代)」1988年
l 「道明寺町史」昭和26年
l 小寺正史「大阪府におけるブドウ栽培の歴史的変遷に関する研究」1986年
l 小寺正史「柏原ぶどうの歴史」1982年
l 柏原市立歴史資料館「柏原ぶどう物語」2011年


1 はだかの古墳

 冬は、陵墓になれなかった古墳たちの出番である。津堂城山古墳(一部陵墓参考地)、古室山古墳、大鳥塚古墳などがそれである。
 墳丘を冷たい風が吹き抜け、わずかに残っていた立木の葉も残らず飛び散る。いろどりも少ない。骨格だけになった枝が空に突き出て、その隙間からくっきりと古墳の全景が現われる。
 丸い墳頂は、前方の方形よりもはるかに高いのがよく分かる。4世紀末から5世紀初め頃に造られた特徴的な姿だそうだ。1600年も昔の凛とした威容を感じる。ヴィオラの胴に似た墳丘のスロープは、妖艶な感じさえして、そのアンバランスが可笑しい。
 冬のさなかにしか目にすることのできない、はだかの古墳である。(勝部)


  
 古室山古墳            大鳥塚古墳

ふじいでら風物詩
  バックナンバー


1 はだかの古墳
2 沢田ぶどう
3 舟橋村の  早咲き水仙(1)
4 舟橋村の  早咲き水仙(2)
ふじいでら   ナイスビュー

▽春爛漫 古室山古墳 2017年4月


▽小さい春みつけた 津堂城山古墳 2017年4月


▽花まつり 潮音寺 2017年4月


▽菜の花の津堂城山古墳 2017年3月

▽奉納筑前琵琶 辛國神社 2017年3月


▽春の散歩 古室山古墳 2017年3月


▽西国三十三所草創1300年法灯リレー出発 葛井寺 2017年3月


▽猿回し 道明寺天満宮 2017年2月


▽合格祈願 道明寺天満宮 2017年2月


▽七五三 道明寺天満宮 2016年11月


▽花梨 道明寺
2016年11月


▽市制施行50周年記念だんじりフェスタ
2016年10月


▽新調入魂 伴林だんじり
2016年9月


▽数珠おくり 春日丘地区地蔵盆 2016年8月


▽西国三十三所草創1300年記念 お盆ろうそく送り火 葛井寺 2016年8月


▽秋の気配 玉手橋
2016年8月


▽ママと水遊び シュラホール
2016年8月


▽天神祭子供みこし
 道明寺天満宮 2016年7月


▽稲田の古墳 はざみ山古墳
2016年7月


▽はなしょうぶ 津堂城山古墳 2016年6月


▽藤 辛國神社 2016年4月


▽菖蒲と藤 小山善光寺
2016年4月


▽ヤマフジ 葛井寺 2016年4月


▽境内の踏切 澤田八幡神社
2016年4月


▽仲哀天皇陵古墳と桜
2016年04月


▽極楽寺に咲く 澤田
2016年4月


▽春満開 古室山古墳
2016年4月


▽春場所・八角部屋 誉田
2016年3月


▽早咲き桜 道明寺天満宮
2016年3月


▽堤の春 大和川
2016年3月


▽白梅 道明寺天満宮
2016年2月


▽春 津堂城山古墳
2016年2月


▽星まつり 辛國神社
2016年2月


▽もう春 古室山古墳
2016年1月


▽柏羽藤・消防出初式 石川
2016年1月


▽初抜奉納演武 辛國神社
2016年1月


▽初日の出 仲哀天皇陵古墳
2016年1月


▽手作り市 葛井寺 2015年11月


▽七五三 辛國神社 2015年11月


▽秋 古室山古墳 2105年11月


▽道明寺線 大和川 2015年11月


▽ビオラコンサート 辛國神社 2015年10月


▽スーパームーン 玉手橋 2015年9月


▽彼岸花 大水川 2015年9月


▽地蔵盆 北向き地蔵、林 2015年8月


▽千日まいり 葛井寺 2015年8月


▽菩提樹の実 道明寺
2015年7月


▽木洩れ日 小山善光寺2015年6月


▽道明寺合戦まつり 道明寺地区 2015年5月


▽白藤のカーテン 葛井寺
2015年5月


▽桐の花 仲哀天皇陵古墳
2015年4月


▽桜に浮かぶ仲哀天皇陵古墳
シュラホール 2015年4月


▽さくら シュラホール
2015年4月


▽しだれ桜 沢田・久保医院
2015年3月


▽奉納獅子舞 道明寺天満宮
2015年3月


▽春はすぐそこ 古室山古墳
2105年1月


▽うそかえ祭 道明寺天満宮
2015年1月


▽蝋梅 道明寺天満宮
2015年1月


▽歳旦祭万燈会 辛國神社2015年1月


▽天使の梯子 大和川
2014年12月


▽錦秋 古室山古墳
2014年11月


▽道明寺合戦記念碑除幕式 2014年11月 道明寺


▽渡り鳥 仲哀天皇陵古墳 2014年11月


▽ハローウィン ブクンダ池公園 2014年10月


▽うろこ雲 大和川
2014年10月


▽だんじり 2014年10月
道明寺


▽秋祭り宮入 2014年10月
藤井寺西地区


▽お彼岸
2013年9月 津堂城山古墳


▽秋空の国府台地古墳群
大和川 2014年9月


▽立秋 津堂城山古墳 2014年8月


▽天神祭 宮入 道明寺天満宮 2014年7月


▽夏越大祓 茅野輪 道明寺天満宮 2014年6月


▽もくげんじゅ 道明寺天満宮西宮 2014年6月


▽田植えのあと 大井
2014年6月


▽カンナ 大水川
2014年6月


▽かるがもの親子 大水川
2014年6月


▽みどり百選 辛國神社
2014年5月


▽花まつり 道明寺
2014年5月


▽道明寺合戦まつり
石川 2014年5月


▽藤まつり 葛井寺
2014年4月


▽西国巡礼 葛井寺
2014年4月


▽うこん桜 道明寺天満宮
2014年4月


▽花祭り 葛井寺
2014年4月


▽芝桜 国府遺跡
2014年4月


▽さくら 道明寺天満宮
2014年4月


▽桜のトンネル 落堀川
2014年4月


▽樹、芽吹く 石川
2014年3月


▽後藤又兵衛 道明寺町だんじり 2014年3月


▽梅満開 道明寺天満宮
2014年3月


▽桃の節句 佐藤家
2014年3月


▽子供もちまき 道明寺
天満宮 2014年2月


▽春をかける 石川
2014年2月


▽雪化粧 津堂城山古墳
2014年2月


▽雪被り 道明寺天満宮
西宮 2014年2月


▽雪降る 古室山古墳
2014年2月


▽節分☆星祭り燈火
会 2014年2月


▽早咲きの梅 津堂城山
古墳 2014年1月


▽夜明けの二上山 
石川 2014年1月


▽左義長 道明寺
天満宮 2014年1月


▽蝋梅 道明寺
2014年1月