⑬ 大坂夏の陣・道明寺合戦
    又兵衛、幸村ゆかりの地を歩く 一日コース

       


 大坂夏の陣・道明寺合戦は、慶長20年(1615)5月6日、午前4時、小松山の戦いに始まって、午後4時、誉田の戦いが終わるまでの12時間の戦いのことです。石川をはさんで、東側の玉手山古墳群と西側の古市古墳群は、徳川方の東軍と豊臣方の西軍の布陣に利用され、この周辺で激戦が行われました。
 藤井寺市の土師ノ里駅からスタートして、古代の街道、玉手山丘陵・古墳群、石川河原、誉田、道明寺を歩く一日コースは、道明寺合戦の両軍の布陣や激戦の様子が始めから終わりまで時間ごとに良く分かるコースです。
 慶長20年(1615)5月5日、東軍は、徳川家康・秀忠約12万の本隊を京から東高野街道を南へ進め、奈良、法隆寺方面から亀の瀬、関屋峠を超えてくる伊達隊ら約3万5千の別働隊と道明寺方面で合流。平野、住吉方面から大坂城に攻め上がろうとする作戦をとりました。
 豊臣方は総勢5万5千。大坂城はすでに濠を埋められており、そのまま攻められれば防ぐ方法もなく、勝利は難しいと判断。 そこで、東軍が道明寺で合流する前に、別動隊が進軍する大和口の山地の狭い場で機先を制して各個撃破することを決めました。
 そして、真田幸村や後藤又兵衛など1万8千の隊は、5月6日早暁、道明寺でおちあうことを約束。後藤隊は予定通り道明寺へと軍を進めるのですが・・・・・・。

ご注意:⑩から⑫は、柏原市玉手山公園にあり、休園日(水曜日、祝日の場合は翌日、12/29-1/3)は立ち入ることができません。ただし梅・桜開花時(2月初旬から4月下旬)は水曜日も開園〕

ウオークコース
(キロ数はスタート地点①からの距離)
 道明寺合戦の流れ

①土師ノ里駅(スタート)〔トイレ〕
 大小古墳の密集地

②允恭天皇陵古墳

 5世紀中頃築造、国府台地最北端 の古墳

③長尾街道と東高野街道の交差点
 古代からの交通の要衝
0.7km

④石川橋西
 当時の石川の自然堤防


⑤片山東(後藤又兵衛基次奮戦の地)
 このあたりで又兵衛討死と伝わる

⑥玉手山丘陵
 
大和路からの亀の背、竜田・関谷越が合流する隘路。多数の古墳が集中
↓1.9km
⑦玉手山1号墳
 
4世紀前半築造、小松山と呼ばれた。東軍奥田忠次供養碑がある

⑧大坂夏の陣小松山古戦場跡碑
〔トイレ:体育館〕
↓2.2km
⑨玉手山3号墳、老人福祉センター〔トイレ〕
 4世紀前半築造、勝負山古墳とも
↓2.8km
⑩玉手山7号墳、大坂夏の陣両軍戦死者供養塔
 
4世紀中頃築造古墳の墳頂に江戸時代、可憶上人が建立
↓2.9km
⑪後藤又兵衛基次・吉村武右衛門の碑
 又兵衛が深手を負い、吉村武右衛門に介錯させたと伝わる
↓3.1km
⑫玉手山展望台〔トイレ:展示館〕
 古墳の地形を利用して布陣した様子が一望
後藤又兵衛隊、小松山へ

5月6日早暁、後藤隊2千8百は道明寺(地名)付近に到着、この辺りを小松山攻略の基点としました。物見をだしてみると、すでに東軍2万3千は国分あたりに陣取っていることが判りました。

ところが、真田隊など後隊が来ないので、後藤隊は単独で進軍を決行。先頭に石川を渡らせ、ただちに小松山を占領すべしと命令。やがて又兵衛も小松山へ向かいました





 
小松山の戦い

午前4時ごろ、後藤隊の先頭隊は小松山を東に下り東軍へ討ち入り、戦いの火ぶたがきられました。後藤隊は10倍近い東軍を撃退したが次第に圧倒され、勝算がないことを覚悟。小松山の西に下って広い地での合戦に挑みました。しかし、又兵衛は片山の深田で討死。後藤隊は道明寺方面に向かって退却。東軍水野隊は、石川を越えて追撃しました。
  戦場となった片山、玉手の村々は西軍に焼き払われ、戦禍は民衆にも及びました。


允恭天皇陵古墳南側の長尾街道


小松山(1号墳)


小松山古戦場跡碑


大坂夏の陣戦没者供養塔


後藤又兵衛、吉村武右衛門の碑

↓4.5km

⑬玉手橋 〔トイレ〕

 石川の左岸を道明寺磧(かわら)、右岸を石川磧と呼ばれた。橋は登録有形文化財。
5.5km
⑭薄田隼人の碑
 
豊臣家の武将。この辺りで討死と伝わる
6.4km
⑮誉田八幡宮(誉田古戦場跡)
〔トイレ〕
 
南北朝以来幾多の戦場

⑯応神天皇陵古墳外濠
 「誉田の森」の西側
↓7.8km
⑰応神天皇陵古墳
 この辺りも西軍布陣。5世紀始築造、体積日本一の古墳
8.2km
⑱古室山古墳
 小松山古戦場が一望。4世紀後半築造
道明寺磧の戦い
 昼前、小松山から退却した後藤隊の残兵は、道明寺磧で薄田隊などと合流。追撃して石川を越えてきた水野軍と激闘。薄田隼人は打ち取られ、西軍は、誉田方面に退きました。






誉田の戦い

 後藤・薄田隊らの諸隊が敗れて残兵が藤井寺あたりに引揚げてきました。午前11時頃、遅れて到着した真田幸村隊3千は、誉田の西に兵を伏せ、玉手山方面から石川を渡ってきた伊達軍に突撃し、激闘。
 午後2時頃、豊臣の伝令が来て、八尾・若江方面の敗戦を告げられました。
 午後4時頃から順次退却を開始。しかし、東軍は追撃しなかったので幸村は「東軍は百万を称しているが、ついに一人の男子もおらぬのか」と、声をあげました。西軍は付近の民家に放火してそのどさくさにまぎれて、平野をへて岡山、天王寺、茶臼山方面へ、退却しました。

石川河原と玉手橋

薄田隼人の碑

誉田八幡宮


古室山古墳


この夜、徳川方は藤井寺、誉田、道明寺、古市あたりで宿営し、家康は翌7日、片山、道明寺の戦場を視察し、平野、天王寺方面へと向かいました。
9.0km
⑲道明寺〔トイレ〕
 
聖徳太子発願の尼寺
↓9.1km
⑳道明寺天満宮
〔トイレ〕
 
土師氏の氏神として創建
↓ 9.4km
道明寺、道明寺合戦記念碑
 ゴール、戦死した武士の慰霊碑


当時の道明寺は、現在の道明寺天満宮の階段下南側にありました。その辺りに西軍が陣を布いていたとの伝えがあります。この時期、道明寺は高屋城の兵乱(1675)で寺院の伽藍は荒廃していたと考えられています。


西軍が陣を敷いた旧道明寺付近

道明寺合戦記念碑

(注)『日本戦史・大坂の役』、『柏原市史』、『藤井寺市史』などを参考にしましたが、諸説あります。
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